古来より、日本人の食生活に寄り添ってきた小豆。それは戦時中も変わらなかった。
東洋の小国に過ぎなかった日本が、白人の大国ロシアと戦争する事になった日露戦争。この戦争において、軍隊狸と呼ばれる妖怪が
日本軍に協力したとの伝承が残っている。彼らは小豆に化けて大陸に渡ると、ロシア軍に突撃していったという。
第一次世界大戦では、欧州の産地(ルーマニアやハンガリー)が戦場になってしまい慢性的な小豆不足を招いた。
ちょうどその時、北海道の小豆が豊作になった。これに目を付けた小樽の商人たちは
ヨーロッパの同盟国へ向けて北海道産の小豆を大量に輸出。儲け話だからと、権力のある政治家に賄賂まで渡して輸出を強行した。
黄金そのものである小豆を少しでも多く手に入れようと、商人や商社同士の醜い抗争にまで発展してしまった。
輸出された小豆の中には、砂糖をまぶして餡子にしたものもあった。ところが、欧米人の口に小豆は合わなかった。渋くて苦いという印象だけが残ったとか。
しかし戦争特需により、十勝の小豆生産者は大儲けに成功。借金を返し、故郷に錦を飾った農家さえいた。
小樽には20件以上の工場が立ち並び、雇われた女工は一時期約6000名に上ったとされる。
北海道初の衆議員こと高橋直治は、第一次世界大戦で小豆の特需が来る事を先読みし、国内の小豆を買い占める。やがて戦火が激しくなると、
倉庫に備蓄した13万俵を一気に売却。1俵17円の高値を付け、ロンドン市場を揺るがした。彼の名は世界的に轟き、「小豆将軍」の異名が付いた。
この様子は「豆成金」と呼ばれ、好景気は1915年から1935年まで続いた。
とはいえ全員が成功した訳ではなく、一夜で資産を傾ける者がいた一方、千金を得る者など千差万別であった。
この頃からアズキくんは大人気で、臣民の運命を握る鍵だったのである。
しかし、小豆特需は長く続かなかった。昭和初期に入ると、船舶の大型化によって海運が発達。拠点だった小樽港も
大規模な改装工事を受けざるを得なくなり、工場は不活発化。数多く居た女工も次々に辞めていき、衰退の一途を辿る。
小樽の繁栄は、現地の住民にさえ忘れられるほどの過去の話になってしまった。
そして特需の終焉は、後の大東亜戦争に暗い影を落とす事になる。
本作のアズキが着ている大正時代を彷彿させる和服はその時代を参考にした可能性がある。
戦前から小豆は大豆に次いで栽培面積が広く、伝統ある食材として生活必需品であった。
また、お汁粉は軍民ともに大人気で、特に子供からの人気が強かった。
1934年12月、森永製菓は茹で小豆の缶詰めを作る事に成功。1つ35銭也。これまでは生産困難とされていたが、
缶詰め化が成功した事で、後の戦争では前線の将兵に向けて送られた。彼らから絶大な支持を得られたのは言うまでも無い。
1930年代、小豆の価格は高騰。大豆の二倍以上あったとの証言もある。街では小豆と呉服の反物を交換する事が出来た。
帝國海軍の顔とも言うべき航空母艦赤城では、乾パンの小倉煮なるスイーツが考案され、
1935年の料理コンテストに出品されている。ふやかした乾パンに砂糖と小豆を混ぜた料理だとか。
海軍の艦艇に積載される補給物資には小豆も含まれており、厳しい戦闘や航海、訓練の慰めとなった。
世界恐慌により絶望的な不景気が始まると雇用対策として、満州国への開拓団が編成された。日本本土から500万人規模の移民が行われ、
満州は穀倉地帯となった。かの地は大変肥沃で、小豆を植えると驚くほど沢山取れたという。
満州で収穫された小豆は内地へと輸送され、厳しい食糧事情を支える柱となった。
帝國海軍では、入港した際にぜんざい(通称入港ぜんざい)が振る舞われた。貴重な砂糖と小豆を使った
ぜんざいは乗組員の心と舌を癒した。このぜんざいには、無事に帰って来られた事を祝う意味合いも含まれている。
佐世保近郊の店では、戦艦武蔵の入港ぜんざいというレトルト商品が販売されている。
給糧艦間宮には貴重品の小豆が大量に積載され、軍属の菓子職人が羊かんを作った。市販品より上質な小豆を使用した間宮の羊かんは
帝國海軍随一の人気を誇り、間宮が入港する日には、各艦から買い出し係が派遣されて羊かんの争奪戦が勃発するという。
争奪戦に敗れた買い出し係は白眼視された。逆に持ち帰る事に成功した者は英雄として祭り上げられた。
大人気商品の羊かんを作るため、乗組員は午前3時に起床して、小豆が数十kg入った袋を菓子製造室まで運んだ。
臣民や軍人からもアズキは愛されていたのだ。
1937年6月に支那事変が勃発すると、いよいよ国内も戦争色に染まり始めた。同年9月10日、「雑穀類配給統制規制」が公布。
小豆を含む豆類が制限される、最初の規制が始まった。
大日本帝國陸軍が制定している昭和12年版・軍隊調理法に、小豆飯が新たに加わった。主食として屋内用に出されたとか。
翌1938年4月からは国家総動員法が発令された。それに伴って、毎月1日の朝は小豆ご飯を食べるようになったという。
戦争が泥沼化する1940年11月14日、政府は食糧を確保すべく二度目の雑穀配給統制規則を公布。更なる制限が課せられ、
自由に売買する事が出来なくなってしまった。
1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。敵味方を逆にして、日本は世界大戦に参戦する。
真珠湾攻撃に参加する搭乗員たちに希望する献立を聞いたところ、「ハギが食べたい」との事だったので、
艦内の貴重な砂糖を使って振る舞われたエピソードがある。
1942年2月15日に英シンガポール要塞が陥落すると、三日後に日比谷公園で大東亜戦争戦捷第1次祝賀国民大会が
開催され、小豆を始めとする貴重品が振る舞われたという。開戦劈頭は優勢だった事もあり、
制限はされつつも小豆を入手する事が出来た(1941年10月4日から小豆の配給統制が始まっていたとする説がある)。
しかし戦況が悪化するにつれ、物資が欠乏。枢軸国が不利になり始める1943年からは
配給制となり、砂糖ともども入手が困難になってしまった。
当時、日本の統治領だった台湾には捨てるほど砂糖があった(内地へ輸送できるとは言ってない)が、小豆は品薄だった。
元々小豆は不急の作物として生産が後回しにされており、それが戦中の欠乏を後押ししてしまった。
小豆がまともに入手できなくなった事すらあったという。このため代用品にと、ササゲが用いられた事があった。
第一次世界大戦の頃とは違い、小豆の輸出は全く行われなかった。対米英で総力戦だった事と、同盟国である独伊へのルートが
全て連合軍によって閉ざされていたからである。遣独潜水艦作戦?しらなーい(へったくそな海上護衛)
そもそも、主な産地であるハンガリーやルーマニアが枢軸国側(味方)だったりする。
また1943年から菓子製造に企業整備令が発布され、モナカといった菓子が国内から姿を消す。アズキの実家こわれる。
息子や父等が召集令状により徴兵された時、出兵を祝ってお赤飯が振る舞われた。
北海道土地改良5ヶ年計画により食糧の増産が試みられたが、その波は十勝まで届かず、小豆の増産は叶わなかった。
一方、満州国は生産地だけあって小豆には困らなかった。本土よりも豊かな暮らしが出来たとも言われる。
限られた小豆を集めてきた小学生達は、それを慰問袋に詰めて、最前線の兵士たちに送った。小豆以外にも様々な食糧が送られたが、
一番喜ばれたのは茹で小豆だった。皇軍兵士にも人気なアズキくんなのでした。
しかし補給線が脅かされていたため、全部が全部届く事は無かった。一人一個の慰問袋ならまだしも、三人に一個とか、酷い時には一個分隊に一個という有様だった。
こういう時は中身を取り出し、くじ引きで分け合ったとか。
餡子を型に流し込み、寒天で固められた羊かんも慰問袋に入れられた。これは福島県二本松市の和菓子店「玉嶋屋」が
帝國陸軍の指示を受けて開発した特製の羊かんだった。羊かんは腐る事が無く、保存食には打ってつけだった。
蛇足だが、1943年12月に発生したヒカリゴケ事件は、根室港から小豆の集積拠点である小樽港へ回航される道中で始まった。
荒天に見舞われ、第五清進丸は小樽港へ辿り着く事が出来なかった。そして……。
小豆にまつわるエピソードに、こういう逸話がある。
1943年頃、南方戦線のとある島に派遣され、戦っていた山田正雄一等兵。彼は、母親の作るおはぎに特別な思い入れがあった。
ある日、彼の部隊は突撃命令を受け、銃剣片手に敵陣へ突撃する。ところが、いつのまにか本隊からはぐれてしまい、一人で密林を彷徨っていた。
自分がどこに居るのか、どこへ向かえば良いのか、さっぱり分からない。星一つ見えない密林の中、次第に空腹と恐怖が心を支配していく。
ちょうど、子供の頃に迷子になった時と情景が似ていた。空腹に耐えかねた山田一等兵は「おふくろのおはぎが食べたい」と呟いた。
密林の中にただ一人。彼は死を覚悟した。
すると不思議な事に、どこからか小豆の炊く匂いがしてきた。そして自分を呼ぶ声が聞こえる。それは母親の声だった。
声のした方へ向くと、人影が見える。思わず彼は人影を追いかけた。追えば追うほど、小豆の匂いが強くなる。間違いなく母親だと確信する。
やがて人影に追いつくと、一瞬振り返ったのち人影は消失した。小豆の匂いも一緒に消えてしまった。
人影が消えた方角を見ると、明かりが見えた。友軍の明かりだ。こうして彼は部隊に戻る事が出来た。しかし、同時に「おふくろが死んだ」と直感する。
終戦後、復員して故郷に帰った彼は、父親に母親の事を尋ねた。やはり、人影が消失した時に母親は亡くなっていた。
今際の時、南方の島まで自分を探しに来てくれた母親に、山田元一等兵は心を揺さぶられるのだった。
内地の母親たちは死に物狂いで小豆をかき集め、お手玉にして疎開先へと送った。
お手玉の中身が小豆に変わったのは、1944年に入ってからだと言われている。
送られたお手玉は子供の遊び道具となったのち、中身を取り出して食べられた。
しかしこれは非常食代わりだったという。疎開先でもひもじい思いをしていた児童は
すぐに食べてしまう事が多かった。全員が全員小豆を入れてもらえる訳ではなく、小石で代用された学童もいた。
疎開先によっては、砂糖をまぶした小豆が振る舞われた場所もあり、幸運な児童は貴重品にありつく事が出来た。
小豆の数が乏しかったため赤飯を作る事が出来ず、代用品のラッキョを乗せたご飯が食された。ラッキョを食べると焼夷弾の被害から逃れられるという
迷信も普及の後押しをした。
小豆の慢性的不足から、「餡無しまんじゅう」という代用食が作られたという記録がある。さつまいもとかぼちゃを小麦粉で練って蒸した代物との事。
1945年に入ると、海軍航空隊の食糧事情も悪化。門司の航空隊では着任と同時に赤飯が振る舞われたが、その実態は米の節約のため、
小豆を入れて水増しした……というものだった。それほどまでに内地の食糧が過不足していたのだ。
満州国から送られてくる雑穀の中に小豆があり、僅かながら供給はされていた。
帝國海軍も日本海側のシーレーンを防衛すべく6000個もの機雷を敷設し、補給路の維持に腐心した。
だがそれも、1945年4月から行われた米軍の飢餓作戦により補給路が切断。
いよいよ小豆は幻の存在となってしまう。東京大空襲で備蓄も焼けてしまい、入手は困難を極めた。
6月28日、帝國陸海軍は日号作戦を発動。朝鮮の港から小豆といった雑穀(戦略物資と呼称)を強引に輸送する賭けに出た。
船舶の絶対数不足、陸揚げ能力の不足、加えて米軍の妨害もあったが95万トン以上の物資を輸送する事に成功。
一方、7月14日から3日間、北海道も攻撃を受けた。小豆の産地だった小樽も攻撃対象になり、空襲から銃撃、艦砲射撃まで手酷くやられた。
停泊中の海防艦や漁船が犠牲となり、市街地や港湾に被害が出た。迎撃機や対空砲による反撃で何機かは撃墜したものの、軍民合わせて37名が死亡。
戦時中、小樽には陸軍の輸送基地が置かれ、千島や樺太に物資を送る拠点となっていた。
同じく小豆の産地である十勝も米艦載機の襲撃を受ける。2日間に渡って銃撃を受け、臣民60名が死亡。
特に本別町への空襲が激しく、50分もの間、激しく銃撃されたという。全焼した家屋は279戸、けが人は14名、罹災者は1915名に上った。
ちなみに本別への激しい攻撃は、帯広への攻撃と間違った事による。臣民への銃撃はNGで……。
同時期、千葉県銚子市が空襲を受け、焼け野原となった。缶詰め工場が集中していたため、生き残った子供達は焼け跡から小豆の缶詰めを拾い集めた。
その後も朝鮮からの輸送作戦は続いたが、日本海は米軍によって機雷封鎖され、8月9日のソ連参戦に伴って輸送作戦は頓挫。間もなく終戦を迎えた。
特攻隊への入隊や出撃前には、赤飯が振る舞われた。保存食にも赤飯が用いられており、現存しているものもある。
ちなみにその保存食は小豆島(しょうどしま)から発見されている。小豆……。
終戦の日である1945年8月15日まで赤飯が提供されていたという。
元特攻隊員や関係者からの証言により、小豆を使った餡にスポンジを包んだ機内食が作られていた事が判明した。
片手で食べられるように、細長く作られているのが特徴である。海軍が指定した和菓子屋に砂糖を支給して、和菓子を納品させていたようだ。
小豆島には1944年8月頃に陸海軍の水上特攻隊の基地が設営されたが、工事は難航。それでも1945年5月2日に小豆島突撃隊が編成された。
現地の工場には隊員のものと思われる遺言が発見されている。
特殊潜航艇蛟竜の出撃基地もあったが、肝心な蛟竜が11隻しかなかったため訓練用に充てられた機体が無かった。
小豆島は香川県に属する田舎の島だったため、大規模な爆撃は受けなかった。しかし艦載機による銃撃はあったという。
1945年8月9日、地平線まで埋め尽くすソ連軍が満州国に侵攻。現地には155万人の開拓移民が取り残されていたが、
民を守るはずの関東軍は南方戦線へ戦力を抽出されまくっており、既に形骸化していた。
それでも関東軍第124師団は小豆山(ソ連軍の砲撃で真っ赤に燃え上がった事から現地の人は火焼山と呼ぶ)に戦闘指揮所を置き、
十倍以上の敵を相手に勇戦。15cmカノン砲一門による砲撃でソ連軍の戦車を数十輌大破炎上せしめる。
壊滅寸前まで追いやられるも、玉音放送が流れる時まで防衛ラインを死守する活躍を見せ、20万人の移民を守りきった。
しかし、さしものアズキも連合軍を餡子みたく練り上げる事は出来なかったようだ。これもうアズキも皇軍兵士だろ。
終戦後、闇市では残飯シチューなる食べ物が流行った。総力戦に敗れた日本は荒廃し、食料が少なかった。
進駐軍の残飯に、かろうじて残っていた小豆やらマッシュルームやらモロコシやらを入れて煮込んだ代物である。
「美味しい」という感想から「食べられた物じゃない」という感想まで千差万別だったが、これを食べて人々は命を繋いだ。
昭和20年の日本は3000万石の生産高しかなく、7000万人の臣民を養うにはとても足りない状況だった。
そこで政府はGHQの力を借り、米や豆類の供出・流出を厳しく統制。一時は食糧メーデーという暴動まで発生した。
アズキくんのレア度は金どころか虹レベルだった!
原爆の投下から一ヶ月あまりが経過した、終戦後の9月17日。広島地区に暴風雨が襲来し、追い討ちをかけた。10月8日にも集中豪雨が襲い、
敗戦で身も心も満身創痍な臣民を痛めつけた。この事態に対し、戸坂に疎開して難を逃れた軍需用の米や小豆が放出され、急場を凌ぐ事が出来た。
一大産地だった満州国が敗戦とともに消滅し、小豆の生産量は著しく減少。戦争が終わった後も、品薄に苦しむ事になった。
北海道から船路で引き揚げてきた者が小豆を大量に持って帰ってきてくれたが、それでも数は全然足りなかった。
小豆が容易に手に入らなくなったため、甘納豆を使った赤飯の代用品が編み出され、ラジオで広く宣伝された。
小豆の生育は気象条件に左右され、年々生産量が乱高下する事から投資の対象となった。
凶作時には凌雲の如く価格が暴騰し、赤いダイヤと呼ばれた事も。
アズキが宝石を好むのはこれが理由なのかもしれない。
ハイリスクハイリターンな事から、生糸と並んで「素人は手を出すな」と言われていた。アズキはお高い女だった・・・?
急激な増産は連作を強要し、落葉病による被害が発生。一時は生産を縮小する事もあったという。
このため耕地を確保するべく、水田で小豆を栽培。不足していた畑の供給分を補った。
供給が安定し、配給制が打ち切られたのは1951年の事だった。自由に売買が出来るようになり、1952年10月には大阪と東京で
雑穀商品取引所が開所。赤いダイヤの異名を持つ小豆は、先物取引の対象にもなった。
ところが1953年及び翌1954年、北海道で小豆が大凶作に見舞われる。外貨不足で輸入も出来ず、価格が高騰した。
60kg1万590円の高値を付けた時もあったという。1955年、平均をやや上回る収穫量が得られたため次第に値段は下がっていった。
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