#author("2020-10-16T15:42:08+00:00","","")
#author("2022-03-27T07:20:41+00:00","","")
&size(18){「概要を食べながら、しゅっぱーつ!」};

アズキはマメ科ササゲ属の一年草。
日本、朝鮮、中国、台湾、インド、ネパール、ベトナム、ミャンマーなどに自生するヤブツルアズキが東アジアで栽培化されたもの。

学名:'''Vigna angularis'''
原産地:東アジア

俳句では夏の季語。
学名の「Vigna」は「ササゲ属」(17世紀のイタリアの自然科学者に由来)、「angularis」は「角張った」の意味。
本作では「アズキ」という名前で実装されているが、「小豆」の読みは本来は「ショウズ」であり、「アズキ」は大和言葉(和名)であるらしい。
名称の由来については、諸説ある。
・「ア」は「赤」、「ズキ」は「溶ける」の意味。煮崩れやすく短時間で調理できることから。
・「アカツブキ(赤粒木)」からアズキとなった
他多数。

このように本来の読み方はショウズだが、アズキ読みの方が一般的。英名も「Azuki bean」となっている。
中国から伝来してきた大豆は中国読みを採用してダイズになったが、古来より日本に自生していたアズキは、土着の大和言葉を採用してアズキ読みになった。
中国から伝来してきた大豆は中国読みを採用してダイズになったが、古来よりヤブツルアズキが自生していた日本では、土着の大和言葉を採用してアズキと読むようになった。
いつ頃から読み方が変わったのかは不明だが、918年に作られた本草和名(ほんぞうわみょう)という本では、赤小豆と書いてアカアスギと読ませていた。
豆という漢字は、神様の食事である神饌を盛る高坏の形から生まれた字と言われる。昔の人は小豆を神へのお供え物にしていた事が窺える。

アズキの草丈は30~70cm程度。長い葉柄に小さな葉が3枚付く。5月中頃に種を植え、6月上旬に発芽。兵庫県では7月中頃から種をまく。
アズキの草丈は30~70cm程度。ヤブツルアズキと違い蔓にならず、茎は直立する。
長い葉柄に小さな葉が3枚付く。5月中頃に種を植え、6月上旬に発芽。兵庫県では7月中頃から種をまく。
7~9月頃に黄色い花が咲いた後、5~10cm程度のサヤができる。
8~11月頃になるとこのサヤが熟し、いわゆる&color(#96514d){''アズキ色''};の豆が収穫できる。見た目はインゲンマメのサヤにそっくり。


#region(''穀類としてのアズキについて''COLOR(white){_})
一般的に「アズキ」というとサヤの中にできるこの豆のこと。
寒さと霜に弱いため、気温10度以下の環境だと上手く発芽しない。寒がり屋のようだ。
小豆は、昼間に太陽を浴びて養分を作り出し、夜間にその養分を糖分に変えて蓄積する。気温が高いと、養分を成長のみに使ってしまうため
甘くならない性質がある。昼暖かく、夜涼しい環境だと効率良く成長する事が出来る。
肥料を多く与えすぎると、葉っぱだけが茂って実が成らないため、肥沃な大地で栽培する場合は肥料無しで育てられる。
北海道産の小豆は、渋み成分であるタンニンの含有量が少なく、吸水量も良いため、中国産よりも良質になる。
また、小豆は連作ができない作物で、一つの畑で小豆を栽培すると向こう5~8年は栽培できない。その間に大豆や小麦を栽培するのが一般的。
甜菜類の次に小豆を連作すると良いと言われる。マメ類の中で最も酸性土に弱いので、栽培には慎重を要する。
黄色い花を咲かせると、寄ってきたハチに受粉させる。この時、容易に受粉できるよう独特な形の花を咲かせる。
大豆は気候風土の異なる土地から持ってくると上手く育たないが、小豆は何処から持ってきても育つ。小豆の生命力の強さには驚かされる。

大きさが5.5mm以下で4.2mm以上のものが「普通小豆」、5.5mm以上のものが「大納言小豆」と区別される。
黄色い花を咲かせるものの、誕生花として指定された日は存在しない。小豆の花に似ているという理由で命名されたノアズキは9月9日だが、別物である。
一応、食用小豆の原種ではないかと言われているため共通点はある。

原産地は中国北東部で、二千年ほど前に日本へと伝来したと言われている。三世紀頃の日本が書かれた魏志倭人伝には何故か小豆の記述が無いが、
その頃には既に小豆は存在していた可能性が高い(後述)。
中国では小豆の事を紅豆(ホンドウ)と呼んでいる。紅豆を使った代表的な料理として紅豆粥(ホンドウチョウ)がある。でも甘くない。

中国で作られた世界最古の薬学書「神農本草経」によると小豆の煮汁が解毒剤として用いられたという記述がある。
同時に小豆の栽培方法が書かれており、やがて世界に波及。薬効を求めて王族に珍重された。
日本では縄文時代にはすでに栽培されていた。今でも遺跡から炭化した小豆が出土する事があるという。
現在国内で栽培されているアズキは自生種のヤブツルアズキ('''V. angularis''' var. nipponensis)を品種改良したもの。つまり、自然界には元々存在しなかった。
ヤブツルアズキは全国的に分布しているが北海道と沖縄県、そして青森県には自生していない。受粉は主にクマバチが行うようだ。
ちなみにこのヤブツルアズキは分類上は栽培用に品種改良されたアズキの変種ということになっている。
上記のようにヤブツルアズキを品種改良したのが現在のアズキなので栽培種の方が変種として扱われるのが自然に思えるが、アズキの栽培の歴史の旧さ故かなぜかこうなってしまっている。
それ以外では畑で栽培していた小豆が、何らかの要因で管理下から逃げ出して自然に戻った結果、先祖がえりしたケースが見受けられる。
栽培小豆と野生小豆の中間のような見た目をしており、サヤは野生と同じように自然と弾ける仕様となっている。
このような特徴から、栽培種と野生種が交配した間の子とも解釈できる。
ちなみに野生種も十分食用にする事が出来、飢饉の時は非常食として人々の飢えを癒したという。人によっては栽培種小豆より美味しいと感じるとか……。

小豆を栽培する前には、必ず畑から石を取り除く。生育に石の存在は障害となるからだ。このため農家は丹念に石を排除する。
十勝地方では火山噴火の名残か、漬物石になりうる石が地面からボコボコ湧いてくる。故にいくら取り除いても終わりが無い。

技術が発達していない頃の小豆は皮が薄く、炊き上がった時に種皮が破れる事があった。「敗れる」「腹が切れる」に通じるため、戦国武将は縁起が悪いと嫌った。
代わりに種皮が破れないササゲが使用された。近年、ササゲの収穫量が減少したのと、種皮が破れない製法が編み出された事から
再び小豆が多用されるようになった。
輸送網が発達していない戦前日本における、水田の無い山奥や僻地では、米が非常に貴重な食糧だった。
その米より更に貴重だったのが小豆である。栄養のある小豆は米以上に大事なもので、ある地域では小豆一升=米二升分の値打ちだった。

2015年、農業生物資源研究所は沖縄綜合科学研究所と共同で、小豆の全ゲノム解析をほぼ終えた(95%)と発表した。
これにより品種改良や省力化を容易なものにし、全く新しい性質を持つ品種の開発が可能になった。

#endregion

#region(''餡子について''COLOR(white){_})
&size(18){「餡子食べる?」};

小豆から作られる餡子は、多種多様な和菓子に使用されてきた歴史を持つ。今や餡子無しでは和菓子業界は成り立たないと言えるだろう。
その原材料たる小豆もまた必要不可欠の存在である。故に和菓子屋の職人は、良質な小豆と餡子を求め続ける。

1349年、中国から訪れた林浄因(りんじょういん)という人物が、後村上天皇に餡子入りの饅頭を献上した事が、餡子の伝来と言われている。
しかし当時の餡子は塩味で、とても甘味と呼べるものではなかった。
中国では饅頭の具材は肉と決まっており、餡は肉扱いだったのだ。
&color(silver){なので花騎士4コマ劇場90話の[[アグロステンマ]]の主張はあながち間違いではないのかもしれない。};
伝来からしばらくの間、饅頭は箸でつまんで食べられていた。曹洞宗の開祖・道元禅師が遺した書物「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」によると箸で食べるやり方が正式だったと記されている。

長らく国内でも餡子は肉扱いであったが、室町時代に外国から砂糖が入ってきた事で一変。国内で砂糖が生産されるようになり、
江戸時代頃から甘く仕上げた餡子が登場するようになった。
ちなみに国内で生産される小豆の約7割が餡子となり、和菓子屋や飲食店で使用される。
餡子には「つぶあん」、「こしあん」、そして「小倉あん」の三種類が存在する。
つぶあんは小豆を潰さずに炊き上げたもの。こしあんは種皮を取り、砂糖で味付けしつつ潰したもの。
そして小倉あんは、こしあんに大納言のような大粒の小豆を混ぜ込んだものである。
小倉あんの「小倉」は、京都府北西部にある小倉山から取られている。小倉唯でも、原爆を落とす候補だった都市の名前でもない。
こしあんの中にある小豆が、小倉山の名物である[[モミジ]]を連想させる事から小倉あんと呼ばれるようになったという異説もある。
他にも「うぐいす餡」や「ずんだ餡」あるが、これらは小豆が原材料ではないので別物である。
つぶあん派、こしあん派は見事に東西で分かれており、未だに混ざり合う事は無い模様。東日本がこしあん派、西日本がつぶあん派と言われる。
流通網が発達していない昔、東日本は北海道産の小豆を使用していた。道産の小豆は皮が柔らかく、煮崩れしやすい事から漉して使う事が多かった。
一方、西日本は丹波や備中が産地の大納言小豆を使っており、これらは煮崩れしなかった事からつぶあんとして使用された。
この食文化が根付いた結果、東西で派閥が分かれる原因となっているとか。

餡子が貴重だった時代が長く続いたためか、和菓子業界には売れ残った商品から餡子を回収して、
新しい小豆とともに炊き直す「餡の炊き直し」と呼ばれる伝統的手法が受け継がれていた。もったいない精神の表れである。
その昔、砂糖は薬に使われるほど貴重なもので、それに伴って餡子も大変貴重品だった。庶民が口にする事が出来ない餡子を大衆に普及させた偉人がいる。
暴れん坊将軍でお馴染みの徳川家八代目将軍、吉宗である。長い間、砂糖は外国からの輸入に頼っていたが、資金源の銀が不足し始めてきた。
これに危機感を覚え、砂糖の国産化を指示したのが徳川吉宗と言われているのだ。こうして砂糖の入手が容易となり、餡子も普及した。
このためか江戸時代の頃には、現代に比肩する製餡技術が確立された。明治時代に入ると和菓子屋の数は増え、
大正時代には製餡を専門とした製餡所が誕生する。大正末期には機械設備の開発も進み、昭和40年頃にはもう現在と変わらない
合理的なシステムが作られていたという。

先人は、小豆と砂糖が上手く連携する事を知っていた。餡子はその最たる例だろう。人の脳はブドウ糖しか養分に出来ない。
餡子を食べると、小豆と砂糖の糖質が分解されるが、その分解を助けるのが小豆に含まれるビタミンB1である。
小豆の助けにより、すばやく脳に栄養が届いて元気になれる、という仕組みなのだ。
また、餡子は和菓子と比べてカロリーが低く、ダイエット中に食す甘味としてはオススメである。それでいて栄養が豊富で、様々な効果が期待できる。
つぶあんは寒天と組み合わせると羊かんや、きんつばにもなるので調理次第では様々な甘味を味わう事が出来る。
また加賀百万石で有名な加賀藩・三代藩主前田利常は小豆で作られた和菓子を愛しており、多くの和菓子を食べた。

物を知らぬが故の笑い話として、こんな話が残っている。
昔々、饅頭を知らない山奥の人々が偶然にも饅頭を発見。これを「毛も足も無い奇妙な虫」だとして大騒ぎする。
おそるおそる饅頭を潰すと、中から小豆や餡子が飛び出してきた。これを見て「こいつは小豆を食う虫だ!」と叫んだ。
文明の光が届かぬ魔境とは、かくも恐ろしいものか。

日本人から国民食として親しまれている餡子だが、日本に住む外国人からの評価は芳しくない。西洋人の舌には合わないようだ。
幼少期に日本へ移住した外国人の中には餡子好きがいるようだが、少数派との事。
戦争をした仲の中国人も、日本の小豆は甘すぎると評している。中国でもフルーツの合間に小豆を入れた切糕(チエガオ)という甘味が存在するが、
小豆そのものは甘くない。中国では、小豆は甘味の材料ではないようだ。
アメリカでは「adzuki(アズーキ)」と呼ばれ、主に高級スーパーで販売されている。塩茹でして煮豆にしたり、チップスのおともで食べられている。

奈良時代、遣隋使によって中国からもたらされた菓子の中に、混飩(こんとん)というものがあった。
これは小麦粉で出来た団子の中に餡子が入った菓子で、麺類のうどんの起源だと言われている。
温かい汁に入れて食べているうちに混飩が温飩(おんとん)になり、訛ってうどんになったという。

#endregion

#region(''産地・品種について''COLOR(white){_})
70%が北海道(十勝)産で、丹波・備中と共に三大産地として知られる。全国的に栽培されているが、唯一沖縄県のみ気候の問題で例外。
北海道内の主な産地は十勝、上川、後志、網走。そして小樽が集積と出荷の拠点となっている。
平安初期に書かれた延喜式の記述によると、昔の産地は近畿、中国、四国だった。

1896年、北海道で栽培する小豆の品種を選定するため、品種比較試験が開始された。選りすぐりの種を抜き出し、未知なる北海道の大地へと持ち込まれた。
小豆が冷害に弱い事を認知しつつも、開拓痩せ地でも比較的多くの収穫を見込め、栽培に手間が掛からず、大面積耕作に向いている事から小豆が選ばれた。
小豆の本格的な栽培が始まったのは1899年頃とされ、今までは個人的に栽培する作物に過ぎなかった。1902年前後には基幹作物の仲間入りを果たし、
北海道への流入者も増えて耕地は拡大していった。
本来、小豆は寒さに弱い品種だが、北海道での栽培を可能とするために品種改良が繰り返され、耐寒性に優れた良質な小豆が出来上がった。
その後も十勝地方で品種改良が進められたが、大東亜戦争勃発により一旦中止を余儀なくされる。再開は1954年まで待たなければならなかった。
米や生鮮野菜の栽培が出来ない北海道や、山間部の農家にとって小豆と大豆は主力となりえた。現金収入を得るため、彼らは栽培に力を入れた。
小豆の収穫が終わる10月が過ぎると、帯広に出荷される。そこで豆商人や仲買人が値段交渉をするのである。
生産者と商人の関係は、支那事変勃発まで続いた。
マメ科の中では唯一、国内での自給のみでまかなわれている。年間4~7万トンの小豆が生産されているとか。
中でも十勝産地は非常に広大で、アメリカやフランスの大規模農場で使われる大型農機を投入している。日本で大型農機を使用するのは
十勝農地だけである。すっごい大きい……。
東京相場で、30kg7800円とされる。1kg当たり260円である。

北海道で栽培されている品種は「エリモショウズ」と「きたのおとめ」、「きたろまん」の三つ。
主力かつ優良品種たるエリモショウズは1971年生まれ。寒さに強く、収穫量も多いという理想的な小豆だったため一時期は市場を独占した。
今でも主力の座に就いているが、病弱なのと連作障害が激しいという欠点を抱えている。
続くきたのおとめは1982年生まれ。十勝で開発された。エリモショウズの後続にあたり、病気に弱い点が改善されている。現在は年間約4000トン生産されている。
最後に現れたのは、きたろまん。2006年に生み出されたニューフェイス。エリモショウズに代わる主力品種として期待がかけられている。
病気への抵抗力を身に付け、早期収穫を可能にした事から、いずれ主力の座に就くだろうと言われている。
一方、エリモショウズは海外への流出が続いており、カナダ・米国・豪州から輸入される小豆が
エリモショウズになるという逆輸入状態が発生している。中国でもエリモショウズが生産されるようになり、外国産との優位性を確保するため
北海道では対策を強いられている。また中国では小豆品種の「しゅまり」「雪手亡」を無許可で栽培し、育成者権を侵害する暴挙が行われている。
これを受けて北海道は監視体制を強化しているとか。

丹波地方(兵庫県)で栽培される小豆は「&color(#96514d){''大納言小豆''};」の名称で呼ばれている。
この地方で栽培された小豆は種皮がしっかりしており、水びたしにしても腹が切れない事から、公達が悪事を働いても腹を切らない官職・大納言にあやかって、そう名づけられた。
現地では、縁起の良い豆とされている。多収性を度外視した高級志向のため、収穫量は少なく、年間800トン程度しか出回らない。
6万トン出回る北海道産と比べると、微々たる量しか採れない事が分かる。京都の人々は、北海道産より丹波産大納言小豆の方が好きらしい。
大粒で光沢が美しく、風味豊かで、糖分が多い特徴がある。
石川県北部の奥能登地方では、「能登大納言小豆」なる亜種が栽培されており、こちらも高品質な小豆に仕上がっている。
この地では、葉タバコと小豆を交互に栽培する事で連作障害を回避していたが、葉タバコが廃作になったため小豆だけを連作。
結果、生産量が低下傾向にある。

中でも一番希少価値が高いのが「白小豆」と呼ばれる品種である。文字通り白い小豆で、その姿は大豆にしか見えない。
国内で生産されている小豆の99%が赤い物のため、その存在を知らない人も多い。主な産地は北海道、兵庫県、岡山、栃木県。
見た目は白色だが、ちゃんと小豆の味がするという。通常の小豆より食物繊維が多く、ポリフェノールを含有しない事から更に甘い味。
気象条件に左右されやすく生産量が安定しない。故に希少価値が高く、その価格は信じられないほど高騰する。
そしてその白小豆を用いた和菓子は、漏れなく高級品となる。年間で出回る量は僅か100kg。先述の大納言小豆よりも少ない。
栽培が難しく、生産者も軒並み高齢な事から増産は困難な状況にある。
本作のアズキが白いエプロンを羽織っているのは、希少価値の高い白小豆を表しているから……かもしれない。
&color(silver){アズキの開花や別バージョンが出たら、髪の毛が真っ白になる可能性も微粒子レベルで存在している……?};

近年、市販の生餡は品質が悪化し続けており、中には中国産の粗悪品まで含まれているという。
高級な和菓子屋では一級品の餡子を使用しているが、末端の弱小店では知識や資金が無い理由で粗悪品を掴まされているとか。


#endregion
#region(''アズキの仲間''COLOR(white){_})
先述の通り、沖縄では小豆の栽培が行われていない。代わりにナンバンアカアズキと言うマメ科の植物が存在する。
同じマメ科でもササゲ属ではなくアデナンセラ属で、落葉樹。熱帯アメリカ原産であり、シンガポールやバンコクにも生えている。
小豆と同じく赤い種子を付ける。淡く光り輝く種子は、まさに宝石そのもの。どの種子も均一な重量のため、
金や宝石を量る時の分銅として活用された歴史がある。雑草化しやすい特徴があるので、本州では監視対象となっている。
ちなみにナンバンアカアズキは、外来種の小豆の総称でもある。
中国では「相想樹」と呼ばれ、美しい種子は相思相愛のシンボルとされた。%%アズキと団長が相思相愛である事を暗喩している……?%%
沖縄県宮古島では黒小豆が栽培されているが、正体はササゲである。島民の食糧に使われているものの生産量が多くないため、価格が高騰している。稀に沖縄本島の市場に出回る。

マメ科ササゲ属のアズキくんは可愛くて人想いだが、親戚には怖いヤクザがいる。その名はトウアズキ。
マメ科トウアズキ属で、蔓性常緑多年生草本に所属する。インドネシア原産で、広義ではナンバンアカアズキに含まれる。
明るい赤と黒の種子を付け、マラカスの中身として使用される事がある。美しい見た目から、装飾品に加工される事も。
葉っぱや根にはサポニンが含まれるので天然の甘味剤に使われる。
問題なのは種子である。トウアズキの種子にはアブリンという猛毒のタンパク質が含まれており、その含有率は毒草の比ではない。
たった3mgで人を死に至らしめるやべーやつなのだ。幸いにも種子は硬い殻に覆われているため、割らない限りは無害。
見た目が綺麗なので海外から持って帰ろうとすると、空港で没収される。
実は日本国内にも自生しており、西表島と石垣島に生えている。

スーパーでは「あずきな」と呼ばれる山菜が並ぶ事がある。茹でると、小豆の香りがする事からその名が付けられた。
その正体はマメ科ソラマメ属の植物ナンテンハギ。名前は葉っぱの形が[[ナンテン]]に似ている事に由来する。食用になる若葉はアズキナで呼ばれる。
とはいえナンテンハギを食用にしているのは極一部の地域のみで、もっぱらご当地食である。天ぷらにして食べるらしい。

竹小豆という小豆のそっくりさんも存在する。主な産地は中国、ミャンマー、タイ。別名はツルアズキ、バカアズキ(!?)。
マメ科の一年草で、熱帯地方では3mほどに生長する。小豆と違って種子が細長く、鉄分や葉酸などが豊富。
このため中華圏では漢方薬に使われる。食用にされ、栄養もあるが最近は殆ど栽培されていない。
日本には餡の原材料として輸入される事がある。

#endregion
#region(''害虫について''COLOR(white){_})
かわいいアズキくんの命を狙う暗殺者は、数多く存在する。

アズキの天敵は、アズキゾウムシと呼ばれる害虫。アズキの中に産卵し、孵化した幼虫が食害を与えてくる。餡子がダメになるよー!
発生率は年に4、5回。つまり季節を問わず襲来するのである。これ対し人類は、害虫に侵入されないよう密閉容器の中に入れて対抗している。
また、戦時中に一人の昆虫学者が、食害に遭わないアズキの開発に腐心した。一度は頓挫したものの、再開。
侵入した害虫を返り討ちにして葬るインゲンマメの遺伝子を組み入れる事で、害虫に負けないアズキが完成。1994年に発表された。
本能のままに食い荒らす害虫が多い中、アズキゾウムシは自分が生まれた一つの種子だけに寄生し続ける特徴がある。
決して他の小豆に移ったりしないのだ。また同じ小豆内で生まれたアズキゾウムシは、まるで兄弟のように一つの種子を分け合う事も確認されている。

他にもスズメガ及びメイガの幼虫が害虫として立ちはだかる。一時期フキノメイガと呼ばれていたが、後にアズキノメイガへと改名。
一度幼虫に侵入されると防除が難しいため、腐ったところが広がる前に被害茎や枝を除去して葬り去る手段が取られる。
幸いな事に、全ての茎や株を荒らされるほど多発する事は無い。
農薬が発達する前はアズキノメイガの発生が多く、手作業で幼虫や卵を除去していた。弾かれた幼虫は釣り餌に転用された。

害虫として馴染み深いアブラムシにも寄生される。6月中旬頃より茎に寄生し、直接吸汁して被害を与えてくる。
主に若い葉っぱの裏に群集。葉っぱは萎え、最悪の場合は株そのものが枯死してしまう。しかもアブラムシが寄生する時期は、他の病害虫がいないため
見落としやすく、放っておくと思わぬ被害を受ける羽目になる。多発すると枯死させられる。乾燥した年に大量発生しやすい。
幸いに、農薬への抵抗性が見られないため防除は容易である。しかし後述のウイルスを運ぶ厄介な敵となるため、油断ならない。
一方、アブラムシに特攻を持つヒーローユニットのテントウムシが現れる事があり、寄生しているアブラムシを捕食してくれる。
およそ一日に百匹ほど食べ、多いときには四匹が一つの株に集まって捕食する。

タマヤナガの幼虫も小豆を荒らす害虫となる。昼間は土中に潜んでいるが、夜間になると動き出し、出芽した株に食害を与える。
やがて食いちぎって、倒してしまう事から「根切り虫」の異名を持つ。夜間に防除を行うと効果的とされる。
北海道の気候だとタマヤナガは越冬できないが、近縁種は越冬するので厄介。
似たような被害を与えてくる害虫に、タネバエの幼虫がいる。この幼虫に侵入された種子は食害に遭い、発芽する事が無くなる。
時には大損害を与えてくる強敵。

アズキヘリカメムシもまた、食害を与えてくる害虫。小豆に限らず、豆類の作物に取り付いては食い荒らす。
害虫である事には違いないが、アズキヘリカメムシは少々毛色が異なる。なんと個体数が少なく、栃木県では絶滅危惧種Ⅱ類に指定されている。
埼玉県では準絶滅危惧種、茨城県では危急種の指定を受けている。どうやら草原の開発が原因で、全国的に数を減らしているようだ。
そのせいか被害の報告も少なく、本腰を上げての対策が取られていない。

変化球として、与える被害が少ない故に見過ごされてきた害虫アザミウマ類も存在する。1918年の研究結果で、既にその存在が確認されていたが、
大した対策が採られなかった。しかしアザミウマを除去すれば、更に生産量が上がるのではないかと言われ、調査及び実験が始まった。
しかし、いくら殺虫剤を撒いても、逆にわざと食害を与えさせるように仕向けても、小豆の結実量に有意な差は出なかった。
つまり対策の有無に関係なく、生産量が均一だったのである。結果、関係者は「アザミウマの寄生は小豆に害が無く、従って防除の必要は無い」と結論付けた。
害虫の中では珍しく、共存を許された種となった。

最近になって襲来した新害虫マキバカスミガメが、小豆に暴力を振るっている。最初の暴虐は、1995年に確認された。
子実に被害を与え、しかも高密度に群集していたのだ。今までは見過ごされる程度の被害しか与えてなかったため、早急に対策が練られた。
実験の結果、農薬が通用するという事で駆除は容易だった。ただ、この害虫は移動性のため発生時期や場所、寄生する時間が全てバラバラである。

アズキくんの命は、害虫に留まらず病害菌にも狙われていた。

1960年代、豆類にバイオハザードが発生する。
手塩にかけて育てた小豆が、やっと小さなサヤを付け始めた頃、突然そのサヤに白いカビが発生。そして瞬く間にベトベトになって腐り落ちてしまった。
小豆だけではない。インゲンマメやダイズを始めとする多くの作物が謎の病原体に冒され、腐り果てていったのである。
おかげで小豆の生産量は激減。当時有効な対策は無く、農家を最も困らせた。アズキくんを腐らせる、Tウイルスの如き病害。
その正体は''菌核病''であった。
バイオハザードは一度だけに留まらず、十勝地方では1960年代を境に年々増加。やがて、大発生年が連続するようになった。
おかげで北海道農業は大打撃を受け、農家ともども頭を抱えた。
忌むべき病害の発生源は、広大な豆類耕作地だった。アズキくんは足元から忍び寄ってきた菌核病に冒されていたのだ。
防除手段は無く、ひとたび発生すれば呆然とするしかなかった。故に、対策が求められた。
室内実験の結果、従来どおり薬剤を散布しただけでは全く効果が無かった。しかし散布方法を変えると、発病を抑える事が出来た。
要するに農家側が散布の仕方を誤っていたのである。とりあえず対策が見つかった事で、研究は次の段階に進む。
菌核病は、どうやって作物に侵入してきたか。これを題目に実験が続けられた。すると、花びらが感染経路になっている事が判明。
試しに開いた花を手で摘み取ってみると、発病率が下がった。こうして、菌核病の脅威は急速に衰えていき、作物の健康は守られた。

しかし、小豆にだけ病魔が残っていた。

1970年は好天に恵まれ、小豆も順調に生育。豊作の見通しが立っていた。そこへ更なる進化を遂げた、未知の菌が襲い掛かる。
8月下旬頃、突然小豆の茎がしおれ、落葉し始める。いわゆる立ち枯れ症状と呼ばれるものだが、それが十勝地方全域で発生したのだ。
収穫前に枯れてしまった事で、収穫量は激減。生き残った小豆も、半分以下の小粒になって品質が下がってしまう。
いよいよ収穫という時にアズキくんを殺された農家たちのショックは大きかった。全滅した畑もあれば、被害を受けなかった畑、
半分だけ生き残った畑もあり、不思議な発生状況だった。さっそく原因究明のため、様々な調査と実験が行われた。
結果を照らし合わせてみた結果、土壌中に潜む菌が小豆の根に病害を与えているという仮説が立てられた。
病原菌を分離して確保するため、連日慎重な作業を実施。苦労の末、病原菌と疑われた菌を分離させる事に成功する。
しかし、その菌は全くの無実だった。他にも菌が潜んでいる可能性を睨み、分離作業は続いたが出てこなかった。一応、菌が原因の病気である事は
判明したが多大な苦労は徒労に終わってしまった。
原因究明の方法を改めるべく、実験に使用していた機器やシャーレを洗浄していると、思わぬ発見が出てきた。
シャーレの中に、未知の菌がコロニーを作っていたのである。薄桃色の菌は、常識では考えられないほど緩慢な成長速度だった。
このため、先の分離実験では小型過ぎて発見できなかったのだ。さっそくこの菌を分離し、健康な小豆に寄生させてみると
確認されていた病状が再現された。この菌こそ病原菌であり、小豆を死に追いやった悪魔の正体だったのだ。
後に学会で発表され、和名「''アズキ落葉病''」と命名された。これは世界的にも未報告な新病害だった。
アズキ落葉病は、小豆にだけ特異的に強い病原性を示す。他の作物にはあまり毒性が無いようだ。
相手の正体が分かった事で実験は飛躍的に進み、菌の生態が判明。小豆も品種改良されて抵抗性を身に付ける等、防除体制は整えられつつある。
しかし土壌病害は防除が難しく、未だ根絶には至っていない。
連作をすると土壌中の菌密度が上昇し、発病・被害発生のリスクが大きく上がる。小豆を連作してはいけないと言われる一因である。
反対にイネ科の作物を輪作すると菌の密度が下がるため、発病リスクを下げられる。

同じく水田転換期の1974年に発生した病気に、アズキさび病がある。
主に道央以南で発症し、6月下旬から8月下旬にかけて葉表面に鉄さび色の斑点が浮き上がる。原因は菌類。
葉っぱに浮き上がった斑点は菌の胞子で、越冬して翌春までしぶとく生き残る性質を持つ。そして子孫を増やす為に周囲へ飛散する。
1950年代から石狩や空知方面を中心に発症しており、水田転換期に再び爆発的流行を見せた。道南での発症率が高い原因として、水分が多い事と
病原菌が小豆に接触しやすい土壌がある事が挙げられる。また気温が高い事も、菌の活動を活発化させている。

アズキくんを蝕む病害菌は、まだ潜んでいた。
1983年、石狩地方で栽培されていた小豆に謎の病が襲来。7月末には全株枯死という惨憺たる結果になってしまった。
これを機に、謎の病害は石狩地方全域に波及。またしてもバイオハザードが発生してしまう。勢いは留まらず、上川地方にまで病気が確認された。
謎の病を引き起こした元凶は、''アズキ萎凋病''というもの。1983年になって突然頻発するようになった。
原因を究明してみると、全滅した小豆畑は全て水田から畑に転換したものだった。水田転換から間もない畑では湿潤条件を満たしてしまい、
図らずもアズキ萎凋病頻発の引き金を引いていた。このため農家は抵抗性のある品種「寿小豆」を植えて対抗したが、これが裏目に出た。
寿小豆はアズキ萎凋病に敏感で、他の品種より激しく症状が出てしまったのだ。皮肉にも寿小豆は、アズキ萎凋病の脅威を際立ててしまう。
どうやらアズキ萎凋病を引き起こす菌は土着のものらしく、十勝地方では発病が確認されていない。
1945年当時、石狩地方は小豆栽培に偏っており、この時期に病原菌が育まれたのでは?と考える者がいる。
対抗策として、畑をもう一度水田に戻して土壌中の菌を殺す案が出された。畑のままだと五年経っても菌が減少しないため有効な手立てに思われた。
確かに効果はあるが、病原菌が無くなるまで5~6年は水田にしないといけないので小豆栽培に強烈な制約が掛かる。
一応、アズキ萎凋病に抵抗のある品種が次々に開発されて栽培されているが、未だに農家を悩ます存在となっている。

植物に感染するウイルスは千種類以上あると言われる。そのうち、アズキは七種類のウイルスに感染する。
中でも特徴的なのが''アズキモザイク病''である。%%寝室の事ではない。%%
生育中の種子にウイルスが侵入する事で感染。ウイルスに冒されると正常な生育が出来ず、植物全体が萎縮する。人には感染しないものの厄介な存在。
一般に6月頃から発病し、7月頃に最大となる。他のウイルスと重複感染する事もあり、重症化を招く。
あくどい事に、ウイルスは汁を吸いに来たアブラムシを媒介に、他の健康なアズキにまで感染を広げる。
感染した小豆は、ウイルスを保有した種子を作る。これを知らずに撒く事で、最初から感染した小豆が誕生する事になる。
植物ウイルスにワクチンは存在しない。これは、人間のように抗体を作り出す仕組みが植物に無いからである。
対策は、感染した小豆を速やかに除去しつつ殺虫剤でアブラムシを減らす事。発生源は畑の周囲に生えている雑草とされる。
道南地方では小豆生育期間の気温が高い事からアブラムシが発生しやすく、インゲンマメモザイクウイルスの発生率が道北より多い。
北海道ではウイルス病の発生は少ないため、主な実験や試験は新潟県で行われている。

''―番外編・蠢く害獣―''

これまでは害虫や病原菌といった小さい相手だったが、より巨大な敵も存在する。

シカ、襲来。

ニホンシカも、小豆に食害を与えてくる害獣である。彼らは雑食なので小豆に限らず、様々な作物を食い荒らす。その量は病害虫の比ではない。
小豆は特に甘いので、葉っぱも茎も花も全てシカの好物である。ひとたび狙われたら、全滅するまで食べ尽くされる。
植物であれば何でも食べる健啖の悪魔は、農家に物理的な対策を強要する。被害は8月から10月の間に集中していた。
小倉餡の産地である京都府右京区嵯峨小倉山地域も、2006年からシカの食害に遭っている。景観保全のため低い防護柵しか設けられず、
主な対策が見つかっていない状態。古来種の小豆は、シカに蹂躙され続けている。
ただ小豆の被害は、全被害のうち3%に過ぎなかったりする。
イビルジョーに匹敵する食害を与えてくるシカに、人々は悩まされ続けてきた。1704~1711年にかけて、大規模な掃討作戦を行ったという記録が残っている。
狩人を雇い、落とし穴を仕掛け、鳴子を引き、垣根を設けて駆除したそうな。



虫が付きやすいため、対策が必要である。か弱いアズキくん。
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#region(''用途について''COLOR(white){_})
アズキ・大豆は[[米>トウカ]]、[[麦>コムギ]]、豆、粟、黍または稗と共に五穀といわれ、日本人の食卓を支えてきた。
薬用に使われるだけあって、牛肉や卵に劣らない豊富な栄養価を含んだ万能食材だった。
お目出たい行事の際の食事に出す赤飯や小正月(1月15日)に食べる小豆粥に使われる他、
餡子として[[お萩>ハギ]]や[[牡丹餅>ボタン]]、最中、饅頭、どら焼き、アンパン、ぜんざい、
煮てから寒天を加えて羊羹、煮た小豆汁にお餅などを入れて汁粉などに使われたりと和食・和菓子に欠かせない食材である。
地域によっては醤油や味噌の原料として使われることもあるのだとか。
夏場になるとカキ氷に小豆と抹茶を添える事がある。これを宇治金時と呼ぶ。宇治は抹茶の事を指し、語源は地名である。
そして金時は小豆を指している。語源は、真っ赤な肌をしていた坂田金時という人物から。金太郎のモデルになった人物でもある。
明治二年、町田房造という人が横浜で開いた「氷水の店」で、削った氷に小豆や抹茶などを入れて販売。これがカキ氷の起源とされる。

豆類の多くは、煮込み料理やスープの食材として使われる。しかし小豆は他の豆類と比べて、やや苦味が強い事から
豆類を煮込む食文化圏ではあまり姿を見ない。一方、日本では一晩中水に漬けてから煮出してアクを取り、砂糖で甘くするという工夫が生まれた。
これは他の食文化圏には無い、日本独特の調理方法だという。
一方、香港では寿司のネタに使用され、アズキ軍艦なんてものがあるという。

山形県の小国町では葬式の際に赤飯を炊く風習があり、普段は忌み嫌われるという珍しい地域性がある。
稀に他の地方でも、葬儀の場で赤飯が用意される事がある。葬儀はあの世とこの世が混ざり合う不安定な場で、参列者があの世に
引き込まれないよう魔除けの意味で振る舞う説、あの世への旅立ちを祝う説、葬式という弔事に赤飯を出す事で慶事に転じる説など様々な説がある。
同じく山形県庄内地方では赤飯の小豆が胴割れすると割腹を彷彿させるとし、ササゲを代用品に充てた。
東北地方では方言で、黒ササゲの事を「てんこ小豆」と呼ぶ。てんこあいしてる。
にがりを混ぜても固まらない事から、小豆で豆腐を作るのは不可能とされる。故に、ありえない物の喩えとして小豆の豆腐という言葉がある。
しかし時代の流れとともに技術が発達したため、高度な職人技によって小豆の豆腐が遂に誕生した。その食感は羊かんっぽいとの事。
古くからある、小豆を使った料理に「いとこ煮」というものがある。イモや[[カボチャ>ペポ]]、[[ダイコン>スズシロ]]、ゴボウ等を小豆とともに煮込んだ
栄養満点の料理である。これを人々は暑い夏に入る前、寒い冬に入る前に食べ、体の増強を図っていた。
時には、[[ナンテン]]の葉が赤飯の上に添えられる場合もあった。アズキとナンテンの意外な接点である。
富山県東砺波郡平村相倉では、男児が生まれると村民が赤飯を振る舞う風習がある。女児の場合は牡丹餅が振る舞われる。
鹿児島県の奄美大島では熱帯の気候から、冷たい小豆粥が出される。スーパーではパック詰めされて売られており、
現地の人々には結構メジャーな食品のようだ。
宮崎県小林市周辺のご当地食として「小豆あくまき」がある。あくまきという宮崎県独自の携帯食に小豆を加えたもので、食べると小豆のコクが広がる。
広島県の名物[[モミジ]]まんじゅうには、厳選された小豆が使用されている。熟練の職人が、餡とカステラのバランスを考えて丁寧に焼き上げており、
土産物として人気がある。
三重県伊勢市の名産・赤福には北海道産小豆を使用。高級和菓子には欠かす事のできない材料として、今日もどこかで活躍している。
島根県出雲市の郷土料理に、小豆雑煮がある。見た目はぜんざいだが、出汁で煮込んで味付けするので甘くない特徴がある。
この小豆雑煮は主に島根県沿岸部で食べられている。新潟や京都、石川の一部でも食されているとか。
青森県の南部地方や岩手県では、小豆とうどんを組み合わせた「小豆ばっと」という郷土料理がある。岩手県では結婚の祝儀に作り、
近隣の住人に嫌と言うほど食べさせる風習がある模様。ばっとは、美味しすぎる事からおかわり禁止=ご法度が訛ったものと言われている。
意外かもしれないが、小豆とうどんを組み合わせた料理は意外と存在しており、埼玉県秩父地方や愛知県でも食べられている。

夏の土用にはウナギを食べる風習が広く知られているが、ある古文書には「土用の入りに油揚げや梅、小豆を食べると病気にならない」と記載されている。
丑の日に小豆を食べて、健康祈願をした名家もいたという。
また日本で男性の最高齢記録を持った木村次郎右衛門氏(116歳)の好物は、おはぎや赤飯だった。小豆パワーは長寿にも有用らしい。
アメリカの研究者も、小豆を常に摂取し続ける事で寿命を大きく伸ばせるとの研究結果を発表している。一日に100g摂る必要があるとか。

国内のアズキは75%が餡用であるが、漢方としても多く使われる。栄養分が豊富で、その八面六臂っぷりは差し詰め天然の薬である。
先ず小豆には、鉄分やビタミンB1やB2、カリウム、カルシウム、美白や血行促進に効果があるとされるポリフェノール、外皮には肥満防止効果を持つサポニンを多く含む。
ビタミンB1はアルコール分解の作用があり、小豆の汁は二日酔いに効くとされる。同時に疲労回復の効果もある。
カリウムとサポニンには生活習慣病と便秘の予防に効果があり、高血圧や中性脂肪の低下にも役立つ。
もたらされる利尿効果は、むくみ対策に効果的である。
豆を煎じたものを「赤小豆(しゃくしょうず)」といい、解毒、排膿、利尿に効く生薬としても使われる。
江戸時代では、原因不明の病とされた脚気の治療薬として医師が小豆を処方していた。
小豆にはチアミンが含まれており、脚気(かっけ)に効果的だった。小豆を国民食にした事で、戦後以降は脚気がぱったりと無くなっている。
食物繊維に至っては、ゴボウ・寒天・キノコをも凌駕する量が含まれている。
民間療法の中には、川魚の鯉を食べてから小豆のスープを飲むと、母乳の出が悪い妊婦に催乳の効果が出るというものがある。
生薬として使われるのはセキショウズ(種子)だけで、食用の餡子は利用されない。餡子の製造過程で、必要成分が溶出されてしまうのだ。

実は小豆は、犬にも効能を発揮するとされる。昭和二十年代、猟師の犬がマムシに噛まれて、首のあたりが激しく腫れてしまう。
猟師は貴重だった純米や砂糖と同様に小豆を煮て、それを犬に何度も飲ませた。理由は「小豆は毒の特効薬だ」との事。
やがて犬は快復し、猟に同行できるようになった。犬の健康をも守る小豆くん。
ちなみに犬に餡子を食べさせても特別害は無いが、食べさせ過ぎると糖尿病になる恐れがある。

余談だが、お汁粉の起源は江戸時代に誕生した「すすり団子」という料理。塩味で味付けし、甘味ではなく酒の肴として飲まれた。
明治から大正にかけての時代は甘い物が少なく、時代に合わせた結果、お汁粉が誕生した。甘味が少ない中でのお汁粉は、
人々を魅了するには十分の美味しさだった。
同時期、大阪ではきんつば焼きが誕生。つぶあんを寒天で固めた菓子で、当初は銀鍔(ぎんつば)と呼ばれていたが、製法が江戸へと伝わった際に
銀よりも金の方が縁起が良いとして金鍔(きんつば)に名称が変わった。
明治後半、大阪浪速橋筋の瓦町付近に一軒のお汁粉屋があった。その店では1月から12月にかけて、12種類のお汁粉を出すキャンペーンを行った。
一年間通って全て平らげたら代金無料。しかしこれには甘い罠があった。なんと月を重ねるごとに甘さが増していくのである。
最後の12月に出されるお汁粉は極めて甘かったという。多くの客は5月か6月辺りで降参したとか。
1970年代までは、お汁粉を専門とした店屋があったが洋菓子の氾濫により姿を消してしまった。

SDの喜びモーションでパンを食べているがあれは「小倉トースト」という名古屋発祥の軽食である。焼いたパンにバター(またはマーガリン)とともに小倉あんを乗せたもの。
1921年頃、名古屋三越の隣にあった喫茶店「満(ま)つ葉」にて誕生したらしい。
古くから菓子作りと茶会の文化が盛んだった名古屋には、餡子を使った甘味が数多く存在する。政令指定都市の中では饅頭の消費量が上位にランクインしており、
名古屋人の餡子好きっぷりが窺える。中でも小倉あんが好みのようだ。最近は洋菓子に押され気味のようだが、未だ人気は根強い。
砂糖代わりにコーヒーへ餡子を入れる人まで居るとか。各家庭には小豆の缶詰めが常備されているなど、名古屋は小豆のメッカと言えるだろう。
信じがたいごとに、小豆で味噌を作る事があるという。ただ大豆と比べると手間が掛かる上、味も悪い模様。

最近、小豆を使ったカイロという運用法が編み出された。耐熱性のある布に小豆を入れ、電子レンジで1分ほど温めると即席のカイロ、湯たんぽにもなる有能っぷり。
時間にして数十分間持つ。繰り返し使えるので、素寒貧の人も安心である。寒い日はアズキに温めてもらおう。
吸熱作用のある小豆は、なんと枕の中身にも使用される。他の雑穀と比べて、小豆には二倍の吸熱性があり、これが夏場で役立つのである。
いつ頃からかは不明だが、枕の中に小豆を入れる人が続出。睡眠を妨げない最高級素材の小豆は、主に武士から好まれた。

戦後しばらくは小豆の不足から、投機の対象になった事がある。1963年には乱高下する小豆市場を舞台にしたドラマ「赤いダイヤ」が製作され、
翌年には映画化もされた。助演女優と化したアズキくん。
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#region(''戦争とアズキ''COLOR(white){_})
古来より、日本人の食生活に寄り添ってきた小豆。それは戦時中も変わらなかった。

東洋の小国に過ぎなかった日本が、白人の大国ロシアと戦争する事になった日露戦争。この戦争において、軍隊狸と呼ばれる妖怪が
日本軍に協力したとの伝承が残っている。彼らは小豆に化けて大陸に渡ると、ロシア軍に突撃していったという。
第一次世界大戦では、欧州の産地(ルーマニアやハンガリー)が戦場になってしまい慢性的な小豆不足を招いた。
ちょうどその時、北海道の小豆が豊作になった。これに目を付けた小樽の商人たちは
ヨーロッパの同盟国へ向けて北海道産の小豆を大量に輸出。儲け話だからと、権力のある政治家に賄賂まで渡して輸出を強行した。
黄金そのものである小豆を少しでも多く手に入れようと、商人や商社同士の醜い抗争にまで発展してしまった。
輸出された小豆の中には、砂糖をまぶして餡子にしたものもあった。ところが、欧米人の口に小豆は合わなかった。渋くて苦いという印象だけが残ったとか。
しかし戦争特需により、十勝の小豆生産者は大儲けに成功。借金を返し、故郷に錦を飾った農家さえいた。
小樽には20件以上の工場が立ち並び、雇われた女工は一時期約6000名に上ったとされる。
北海道初の衆議員こと高橋直治は、第一次世界大戦で小豆の特需が来る事を先読みし、国内の小豆を買い占める。やがて戦火が激しくなると、
倉庫に備蓄した13万俵を一気に売却。1俵17円の高値を付け、ロンドン市場を揺るがした。彼の名は世界的に轟き、「小豆将軍」の異名が付いた。

この様子は「豆成金」と呼ばれ、好景気は1915年から1935年まで続いた。
とはいえ全員が成功した訳ではなく、一夜で資産を傾ける者がいた一方、千金を得る者など千差万別であった。
この頃からアズキくんは大人気で、臣民の運命を握る鍵だったのである。
しかし、小豆特需は長く続かなかった。昭和初期に入ると、船舶の大型化によって海運が発達。拠点だった小樽港も
大規模な改装工事を受けざるを得なくなり、工場は不活発化。数多く居た女工も次々に辞めていき、衰退の一途を辿る。
小樽の繁栄は、現地の住民にさえ忘れられるほどの過去の話になってしまった。
そして特需の終焉は、後の大東亜戦争に暗い影を落とす事になる。
本作のアズキが着ている大正時代を彷彿させる和服はその時代を参考にした可能性がある。

戦前から小豆は大豆に次いで栽培面積が広く、伝統ある食材として生活必需品であった。
また、お汁粉は軍民ともに大人気で、特に子供からの人気が強かった。
1934年12月、森永製菓は茹で小豆の缶詰めを作る事に成功。1つ35銭也。これまでは生産困難とされていたが、
缶詰め化が成功した事で、後の戦争では前線の将兵に向けて送られた。彼らから絶大な支持を得られたのは言うまでも無い。
1930年代、小豆の価格は高騰。大豆の二倍以上あったとの証言もある。街では小豆と呉服の反物を交換する事が出来た。

帝國海軍の顔とも言うべき航空母艦赤城では、乾パンの小倉煮なるスイーツが考案され、
1935年の料理コンテストに出品されている。ふやかした乾パンに砂糖と小豆を混ぜた料理だとか。
海軍の艦艇に積載される補給物資には小豆も含まれており、厳しい戦闘や航海、訓練の慰めとなった。
世界恐慌により絶望的な不景気が始まると雇用対策として、満州国への開拓団が編成された。日本本土から500万人規模の移民が行われ、
満州は穀倉地帯となった。かの地は大変肥沃で、小豆を植えると驚くほど沢山取れたという。
満州で収穫された小豆は内地へと輸送され、厳しい食糧事情を支える柱となった。
帝國海軍では、入港した際にぜんざい(通称入港ぜんざい)が振る舞われた。貴重な砂糖と小豆を使った
ぜんざいは乗組員の心と舌を癒した。このぜんざいには、無事に帰って来られた事を祝う意味合いも含まれている。
佐世保近郊の店では、戦艦武蔵の入港ぜんざいというレトルト商品が販売されている。
給糧艦間宮には貴重品の小豆が大量に積載され、軍属の菓子職人が羊かんを作った。''市販品より上質な''小豆を使用した間宮の羊かんは
帝國海軍随一の人気を誇り、間宮が入港する日には、各艦から買い出し係が派遣されて羊かんの争奪戦が勃発するという。
争奪戦に敗れた買い出し係は白眼視された。逆に持ち帰る事に成功した者は英雄として祭り上げられた。
大人気商品の羊かんを作るため、乗組員は午前3時に起床して、小豆が数十kg入った袋を菓子製造室まで運んだ。
臣民や軍人からもアズキは愛されていたのだ。

1937年6月に支那事変が勃発すると、いよいよ国内も戦争色に染まり始めた。同年9月10日、「雑穀類配給統制規制」が公布。
小豆を含む豆類が制限される、最初の規制が始まった。
大日本帝國陸軍が制定している昭和12年版・軍隊調理法に、小豆飯が新たに加わった。主食として屋内用に出されたとか。
翌1938年4月からは国家総動員法が発令された。それに伴って、毎月1日の朝は小豆ご飯を食べるようになったという。
戦争が泥沼化する1940年11月14日、政府は食糧を確保すべく二度目の雑穀配給統制規則を公布。更なる制限が課せられ、
自由に売買する事が出来なくなってしまった。

1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。敵味方を逆にして、日本は世界大戦に参戦する。
真珠湾攻撃に参加する搭乗員たちに希望する献立を聞いたところ、「[[ハギ]]が食べたい」との事だったので、
艦内の貴重な砂糖を使って振る舞われたエピソードがある。
1942年2月15日に英シンガポール要塞が陥落すると、三日後に日比谷公園で大東亜戦争戦捷第1次祝賀国民大会が
開催され、小豆を始めとする貴重品が振る舞われたという。開戦劈頭は優勢だった事もあり、
制限はされつつも小豆を入手する事が出来た(1941年10月4日から小豆の配給統制が始まっていたとする説がある)。
しかし戦況が悪化するにつれ、物資が欠乏。枢軸国が不利になり始める1943年からは
配給制となり、砂糖ともども入手が困難になってしまった。
当時、日本の統治領だった台湾には捨てるほど砂糖があった(内地へ輸送できるとは言ってない)が、小豆は品薄だった。
元々小豆は不急の作物として生産が後回しにされており、それが戦中の欠乏を後押ししてしまった。
小豆がまともに入手できなくなった事すらあったという。このため代用品にと、ササゲが用いられた事があった。

第一次世界大戦の頃とは違い、小豆の輸出は全く行われなかった。対米英で総力戦だった事と、同盟国である独伊へのルートが
全て連合軍によって閉ざされていたからである。遣独潜水艦作戦?しらなーい(へったくそな海上護衛)
そもそも、主な産地であるハンガリーやルーマニアが枢軸国側(味方)だったりする。
また1943年から菓子製造に企業整備令が発布され、モナカといった菓子が国内から姿を消す。アズキの実家こわれる。
息子や父等が召集令状により徴兵された時、出兵を祝ってお赤飯が振る舞われた。
北海道土地改良5ヶ年計画により食糧の増産が試みられたが、その波は十勝まで届かず、小豆の増産は叶わなかった。
一方、満州国は生産地だけあって小豆には困らなかった。本土よりも豊かな暮らしが出来たとも言われる。
限られた小豆を集めてきた小学生達は、それを慰問袋に詰めて、最前線の兵士たちに送った。小豆以外にも様々な食糧が送られたが、
一番喜ばれたのは茹で小豆だった。皇軍兵士にも人気なアズキくんなのでした。
しかし補給線が脅かされていたため、全部が全部届く事は無かった。一人一個の慰問袋ならまだしも、三人に一個とか、酷い時には一個分隊に一個という有様だった。
こういう時は中身を取り出し、くじ引きで分け合ったとか。
餡子を型に流し込み、寒天で固められた羊かんも慰問袋に入れられた。これは福島県二本松市の和菓子店「玉嶋屋」が
帝國陸軍の指示を受けて開発した特製の羊かんだった。羊かんは腐る事が無く、保存食には打ってつけだった。

蛇足だが、1943年12月に発生したヒカリゴケ事件は、根室港から小豆の集積拠点である小樽港へ回航される道中で始まった。
荒天に見舞われ、第五清進丸は小樽港へ辿り着く事が出来なかった。そして……。

小豆にまつわるエピソードに、こういう逸話がある。
1943年頃、南方戦線のとある島に派遣され、戦っていた山田正雄一等兵。彼は、母親の作るおはぎに特別な思い入れがあった。
ある日、彼の部隊は突撃命令を受け、銃剣片手に敵陣へ突撃する。ところが、いつのまにか本隊からはぐれてしまい、一人で密林を彷徨っていた。
自分がどこに居るのか、どこへ向かえば良いのか、さっぱり分からない。星一つ見えない密林の中、次第に空腹と恐怖が心を支配していく。
ちょうど、子供の頃に迷子になった時と情景が似ていた。空腹に耐えかねた山田一等兵は「おふくろのおはぎが食べたい」と呟いた。
密林の中にただ一人。彼は死を覚悟した。
すると不思議な事に、どこからか小豆を炊く匂いがしてきた。そして自分を呼ぶ声が聞こえる。それは母親の声だった。
声のした方へ向くと、人影が見える。思わず彼は人影を追いかけた。追えば追うほど、小豆の匂いが強くなる。間違いなく母親だと確信する。
やがて人影に追いつくと、一瞬振り返ったのち人影は消失した。小豆の匂いも一緒に消えてしまった。
人影が消えた方角を見ると、明かりが見えた。友軍の明かりだ。こうして彼は部隊に戻る事が出来た。しかし、同時に「おふくろが死んだ」と直感する。
終戦後、復員して故郷に帰った彼は、父親に母親の事を尋ねた。やはり、人影が消失した時に母親は亡くなっていた。
今際の時、南方の島まで自分を探しに来てくれた母親に、山田元一等兵は心を揺さぶられるのだった。

内地の母親たちは死に物狂いで小豆をかき集め、お手玉にして疎開先へと送った。
お手玉の中身が小豆に変わったのは、1944年に入ってからだと言われている。
送られたお手玉は子供の遊び道具となったのち、中身を取り出して食べられた。
しかしこれは非常食代わりだったという。疎開先でもひもじい思いをしていた児童は
すぐに食べてしまう事が多かった。全員が全員小豆を入れてもらえる訳ではなく、小石で代用された学童もいた。
疎開先によっては、砂糖をまぶした小豆が振る舞われた場所もあり、幸運な児童は貴重品にありつく事が出来た。
小豆の数が乏しかったため赤飯を作る事が出来ず、代用品のラッキョを乗せたご飯が食された。ラッキョを食べると焼夷弾の被害から逃れられるという
迷信も普及の後押しをした。
小豆の慢性的不足から、「餡無しまんじゅう」という代用食が作られたという記録がある。さつまいもとかぼちゃを小麦粉で練って蒸した代物との事。
1944年11月、国策映画「雷撃隊出撃」撮影のため、航空母艦鳳翔に撮影班が来訪。鳳翔の乗組員が砂糖と小豆を用意して、
班員に汁粉を振る舞った。これを参考にしたのか、映画の中にも汁粉を振る舞うシーンが登場した。まさかの銀幕デビューである。

1945年に入ると、海軍航空隊の食糧事情も悪化。門司の航空隊では着任と同時に赤飯が振る舞われたが、その実態は米の節約のため、
小豆を入れて水増しした……というものだった。それほどまでに内地の食糧が過不足していたのだ。

満州国から送られてくる雑穀の中に小豆があり、僅かながら供給はされていた。
帝國海軍も日本海側のシーレーンを防衛すべく6000個もの機雷を敷設し、補給路の維持に腐心した。
だがそれも、1945年4月から行われた米軍の飢餓作戦により補給路が切断。
いよいよ小豆は幻の存在となってしまう。東京大空襲で備蓄も焼けてしまい、入手は困難を極めた。
6月28日、帝國陸海軍は日号作戦を発動。朝鮮の港から小豆といった雑穀(戦略物資と呼称)を強引に輸送する賭けに出た。
船舶の絶対数不足、陸揚げ能力の不足、加えて米軍の妨害もあったが95万トン以上の物資を輸送する事に成功。

一方、7月14日から3日間、北海道も攻撃を受けた。小豆の産地だった小樽も攻撃対象になり、空襲から銃撃、艦砲射撃まで手酷くやられた。
停泊中の海防艦や漁船が犠牲となり、市街地や港湾に被害が出た。迎撃機や対空砲による反撃で何機かは撃墜したものの、軍民合わせて37名が死亡。
戦時中、小樽には陸軍の輸送基地が置かれ、千島や樺太に物資を送る拠点となっていた。
同じく小豆の産地である十勝も米艦載機の襲撃を受ける。2日間に渡って銃撃を受け、臣民60名が死亡。
特に本別町への空襲が激しく、50分もの間、激しく銃撃されたという。全焼した家屋は279戸、けが人は14名、罹災者は1915名に上った。
ちなみに本別への激しい攻撃は、帯広への攻撃と間違った事による。臣民への銃撃はNGで……。
同時期、千葉県銚子市が空襲を受け、焼け野原となった。缶詰め工場が集中していたため、生き残った子供達は焼け跡から小豆の缶詰めを拾い集めた。

その後も朝鮮からの輸送作戦は続いたが、日本海は米軍によって機雷封鎖され、8月9日のソ連参戦に伴って輸送作戦は頓挫。間もなく終戦を迎えた。

終戦間近のビルマ方面では、シッタン河東岸に設けられた安兵団司令部がぜんざいを振る舞っていた。
このぜんざいを食べたいがために、長期間の逃避行で疲労困憊の体に鞭打って多くの兵が司令部を目指した。

特攻隊への入隊や出撃前には、赤飯が振る舞われた。保存食にも赤飯が用いられており、現存しているものもある。
ちなみにその保存食は小豆島(しょうどしま)から発見されている。小豆……。
終戦の日である1945年8月15日まで赤飯が提供されていたという。
元特攻隊員や関係者からの証言により、小豆を使った餡にスポンジを包んだ機内食が作られていた事が判明した。
片手で食べられるように、細長く作られているのが特徴である。海軍が指定した和菓子屋に砂糖を支給して、和菓子を納品させていたようだ。

小豆島には1944年8月頃に陸海軍の水上特攻隊の基地が設営されたが、工事は難航。それでも1945年5月2日に小豆島突撃隊が編成された。
現地の工場には隊員のものと思われる遺言が発見されている。
特殊潜航艇蛟竜の出撃基地もあったが、肝心の蛟竜が11隻しかなかったため訓練用に充てられた機体が無かった。
小豆島は香川県に属する田舎の島だったため、大規模な爆撃は受けなかった。しかし艦載機による銃撃はあったという。

1945年8月9日、地平線まで埋め尽くすソ連軍が満州国に侵攻。現地には155万人の開拓移民が取り残されていたが、
民を守るはずの関東軍は南方戦線へ戦力を抽出されまくっており、既に形骸化していた。
それでも関東軍第124師団は小豆山(ソ連軍の砲撃で真っ赤に燃え上がった事から現地の人は火焼山と呼ぶ)に戦闘指揮所を置き、
十倍以上の敵を相手に勇戦。15cmカノン砲一門による砲撃でソ連軍の戦車を数十輌大破炎上せしめる。
壊滅寸前まで追いやられるも、玉音放送が流れる時まで防衛ラインを死守する活躍を見せ、20万人の移民を守りきった。

しかし、さしものアズキも連合軍を餡子みたく練り上げる事は出来なかったようだ。%%これもうアズキも皇軍兵士だろ。%%

終戦後、闇市では残飯シチューなる食べ物が流行った。総力戦に敗れた日本は荒廃し、食料が少なかった。
進駐軍の残飯に、かろうじて残っていた小豆やらマッシュルームやらモロコシやらを入れて煮込んだ代物である。
「美味しい」という感想から「食べられた物じゃない」という感想まで千差万別だったが、これを食べて人々は命を繋いだ。
昭和20年の日本は3000万石の生産高しかなく、7000万人の臣民を養うにはとても足りない状況だった。
そこで政府はGHQの力を借り、米や豆類の供出・流出を厳しく統制。一時は食糧メーデーという暴動まで発生した。
アズキくんのレア度は金どころか虹レベルだった!

原爆の投下から一ヶ月あまりが経過した、終戦後の9月17日。広島地区に暴風雨が襲来し、追い討ちをかけた。10月8日にも集中豪雨が襲い、
敗戦で身も心も満身創痍な臣民を痛めつけた。この事態に対し、戸坂に疎開して難を逃れた軍需用の米や小豆が放出され、急場を凌ぐ事が出来た。
一大産地だった満州国が敗戦とともに消滅し、小豆の生産量は著しく減少。戦争が終わった後も、品薄に苦しむ事になった。

北海道から船路で引き揚げてきた者が小豆を大量に持って帰ってきてくれたが、それでも数は全然足りなかった。
小豆が容易に手に入らなくなったため、甘納豆を使った赤飯の代用品が編み出され、ラジオで広く宣伝された。
小豆の生育は気象条件に左右され、年々生産量が乱高下する事から投資の対象となった。
凶作時には凌雲の如く価格が暴騰し、&color(#96514d){''赤いダイヤ''};と呼ばれた事も。
アズキが宝石を好むのはこれが理由なのかもしれない。
ハイリスクハイリターンな事から、生糸と並んで「素人は手を出すな」と言われていた。アズキはお高い女だった・・・?
急激な増産は連作を強要し、落葉病による被害が発生。一時は生産を縮小する事もあったという。
このため耕地を確保するべく、水田で小豆を栽培。不足していた畑の供給分を補った。
1946年以降はGHQから救援物資が届くようになり、その中には小豆も含まれた。サンフランシスコ在住の日系人や邦人が中心となって
出資してくれたが、表向きはアメリカ人の支援物資とされ、日本人の関与は伏せられた。

供給が安定し、配給制が打ち切られたのは1951年の事だった。自由に売買が出来るようになり、1952年10月には大阪と東京で
雑穀商品取引所が開所。赤いダイヤの異名を持つ小豆は、先物取引の対象にもなった。
ところが1953年及び翌1954年、北海道で小豆が大凶作に見舞われる。外貨不足で輸入も出来ず、価格が高騰した。
60kg1万590円の高値を付けた時もあったという。1955年、平均をやや上回る収穫量が得られたため次第に値段は下がっていった。
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#region(''アズキと神話・宗教''COLOR(white){_})
アズキは神話にも度々登場する。奈良時代初期の書物『古事記』に初めてアズキの名が記載された。
『古事記』には穀物・食物・蚕の女神である大気都比売神(おほげつひめ)が殺された際、その鼻から小豆が生じたとされる。
これが五穀の始まりとされ、これらの種子は神産巣日神(かみむすび)によって、国中に広がっていった。
ちなみに殺されたのは、空腹で困っているスサノオが農業の神様オホゲツヒメの家へと転がり込んだ時だった。
突然やってきたスサノオを邪険にせず、食べ物を振る舞うオホゲツヒメ。ご飯にありつき、満足したスサノオだったが
何故こんなにも食べ物があるのかと不審に思い、台所へ向かったところ、鼻や口や尻から食べ物を出しているオホゲツヒメの姿が。
「汚い物を食べさせやがって!」と激昂したスサノオが、彼女を斬り殺してしまった。恩を仇で返す畜生の鑑。
この狼藉にブチ切れた神々はスサノオを高天原から追放し、中つ国に追いやったとされる。
イザナギ、イザナミの二神が国生みをした時、10番目に造られた国が阿豆枳辞摩(あずきじま。現在の小豆島)である。
この時点で既に小豆が存在していた事が窺える。同島が小豆の産地だったため、このような名前が付けられたとする説がある。
阿豆枳辞摩が現在の呼び名である小豆島になったのは鎌倉時代中期とされている。

『日本書紀』でも同様に食物の神である保食神(うけもち)が殺された際、保食神の亡骸の陰部から麦・大豆・小豆が生まれたとされる。
ウケモチを殺したのは月読(ツキヨミ)で、殺害までの経緯は上述のスサノオと同一。ゲゲル感覚で殺害が横行しているようだ。
この狼藉に激怒した天照大神は月読と絶縁し、別れた事で昼夜の概念が誕生したと言われる。
ちなみに日本書紀では阿豆枳辞摩の事が書かれていない。何でだ。
また、COLOR(red){赤色}は五行において邪気を祓う「火」、または太陽や血など「生命」を象徴する色であることから、赤く熟したアズキには魔除けの力があると信じられてきた。
祝事や季節の変わり目、生活の節目に厄除けとしてアズキを食べるのもこのため。

節分と言えば大豆を投げる家庭が多数を占めるが、小豆を投げる所もある。どちらも豆であり、「魔を滅する」とかけて厄除けの力がある。
今でこそ大豆を投げる風習が根付いているが、元々は豆であれば何でも良かったという。故に東北地方や北海道、信越地方では落花生を使用する。

地方によっては御九日(みくにち)という風習がある。これは9月の9日、19日、29日に秋の収穫祭を行い、小豆粥を炊いて祝うというものである。
祭礼で作る料理の事を三九日粥と言い、東北から長野県に至る地方では、これにナスを付け加える。
また厄年に当たる男女は、厄除け用の餡子入り和菓子を周囲の人々に配って、いざという時に助けて貰うという風習が残っている。
地域によっては饅頭だったり、餡子餅だったりするが、いずれも小豆が使用された菓子である。
節分の時にも厄除けと称して、ぜんざいを配る事がある。小豆の魔除けパワーにあやかっての慣わしなのは言うまでも無い。
他人にぜんざいを振る舞う事で徳を積み、同時にぜんざいともども厄を平らげて貰うという意味が込められているとの事。
美味しく食べて厄除けをするのが趣旨なので、お返しは要らないとか。
古くから小豆には厄除けの力があると信じられていたが、やがて現代のように災厄を一身に引き受ける万能食物という考えが誕生する。
その起源は江戸や京都、大阪といった都市部であった。

長野県長野市の高岡地区では、1月15日に日待(ひまち)占いの一環として小豆焼きが行われる。
小豆の回り方で、道祖神や専達三嶋神社の御機嫌を伺い、時勢や農作物の豊凶、風や水の有無と言った35項目を占うという。
正式な占いが終わった後は、余興として勉学や縁談の占いをする。江戸時代から続いてきた小豆焼きだが、今ではこの高岡地区でのみ受け継がれている。
小正月には小豆粥を食べて魔を祓う考えは、中国から入ってきたとされ、平安時代には既に実践されていた。
この時、粥をかき混ぜるのに使った棒で女性の臀部を殴ると子宝に恵まれ、男子を安産する御利益に預かれる。
鎌倉時代からは、小正月の日に各地の神社で小豆粥が作られ、その占い結果を農家に知らせる行事が行われた。
熱いからと言って口で吹く事は「風が吹く」と言って、忌避される。このため熱くても我慢して食べなくてはならなかった。

みんな大好きな甘味ぜんざい。その語源は、インド仏教という説がある。
仏様の弟子たちが意見に賛同するとき「sadhu(ぜんざい)」と言う。大乗仏教の経典にも、その単語が何回か出てくる。
仏教が日本に伝来した時、ぜんざいという言葉も伝わって、喜びを表す言葉になった。当時、貴重な小豆と砂糖を使ったお汁粉は
なかなか口にする事が出来ない至高の一品。それを食べられる機会を得た人々は「ぜんざい、ぜんざい」と言い、いつしかお汁粉そのものを
ぜんざいと呼ぶようになった。一休さんで有名な一休和尚が、お汁粉を「ぜんざい」と称した事が始まりとする説もある。

密教の秘法、護摩供では本尊不動明王を初めとする諸仏に五穀を供える作法があり、ここでも小豆が使われている。
不動明王の口を模した護摩壇の釜の中に、供物を投じて修法するのである。
地鎮式の際、土地の神様へのお供え物として五穀を穴の中に埋めるという作法があり、土着の宗教に深く結びついている事が窺える。
似たような例として三重県鈴鹿市稲生では、地鎮祭の時に施主が小豆を撒いて、工事の無事を祈る事がある。
浄土真宗の開祖こと親鸞聖人も小豆を愛したとされ、東本願寺では春の法要の際に、「あずきフェスタ」と称した催しが開催される。
他にも報恩講では、小豆粥や小豆ごはんを振る舞うのが通例としている。
親鸞聖人に縁がある越中五箇山には、小豆が入った味噌汁「あずきお漬け」が綿々と伝わっている。
食した人の感想によると、デザート感覚で食べられるという。

西暦809年、唐から帰国した真言宗の開祖・空海は、密教の秘法とともに小豆の種を持ち帰ってきた。
これを山城国の小倉山近辺に植えて栽培。後年、和三郎という菓子職人が砂糖を混ぜ、御所に献上した事が小倉あんの発祥と言われている。
品種改良や産地が移動した事で小倉大納言小豆は数を減らしたが、江戸時代に入ると再び栽培されるようになったという。

その後、弘法大師空海は日本各地を旅する。蓬沢の村という場所で托鉢を行っていた空海は、ある民家に「小豆を分けて貰えないか」とお願いする。
しかし民家の母親は「うちの小豆は石小豆と言って、石のように硬くて食べられない」と拒否。どうやら小豆を渡したくなかったようだ。
それでも良いから恵んでくれと空海は言うが、取り合わない。渋々空海は引き下がり、去っていった。その後、その家では本当に硬い小豆しか採れなくなった。
一方、安房地方にある神余の畑中(かなまりのはたなか)という部落では、こんな伝承が残っている。
大同3年11月24日、弘法大師がやってきて食べ物を求めたので、美和女(びわじょ)という婦人はちょうど作ってあった小豆粥を与えた。
その小豆粥に塩気が無い事に気付いた空海は、不審に思った。理由を聞くと、家が貧乏で塩が買えないとの事。不憫に思った空海は川の岸に下りて、
手に持つ錫杖で地面を刺す。しばし祈念したのち、それを抜くと穴から水が迸った。その水は嘗めて見ると真塩で、塩問題が一気に解決したという。
高野山に向かう弘法大師が道すがら立ち寄った寺が、奈良県五條市二見町にある。生蓮寺と呼ばれるこの寺では地蔵菩薩を祀っており、
その地蔵に小豆を供えると雨が止むと言われている。
岐阜県大垣市十六町にある弘法の井戸には眼病に効くという言い伝えがある。井戸水で目を洗い、一粒の小豆を目に当ててから投げ込むと、
流行り目が治るとされていた。

日蓮宗の開祖・日蓮聖人がまだ修行僧だった頃、ある土地で子供達に酷く苛められる狸を発見。これを助けると、狸は家族総出で恩返し。
「修行で疲れた体を癒して下さい」と、あたたかいお汁粉を振る舞った。
その後、日蓮聖人は過激な布教と終末思想を煽った事で役人に捕らわれ、鎌倉市内の刑場に引き出される。
聖人の姿を一目でも見ようと、善男善女が集まった。その中の一人、ある尼僧が急ごしらえで牡丹餅を作り、日蓮聖人に献上。
とっさに作ったものなので、ご飯に胡麻塩を振りかけただけのものだった。これが後世に形を変え、小倉餡のおはぎになったと言われる。

中国の高僧、道綽(どうしゃく)は日々七万遍の念仏を唱えていた。念仏一遍ごとに小豆を一粒取る「小豆念仏」を考案し、
民衆に広めた。のちに日本へと伝わり、浄土宗が小豆念仏を行っている。

お彼岸と言えば、牡丹餅や御萩を食べる習慣がある。彼岸は日本仏教特有の法事だが、元々は日願という神道の催しだった。
植え付けを行う春に豊作を願い、秋の収穫の際には太陽に感謝する。これが春と秋の彼岸の由来である。
古来より小豆には魔除けの力があると信じられたため、作物の米と混ぜ合わせて牡丹餅及び御萩を作り出したのである。

古くから存在する小豆は、その名が地名になったり、妖怪の名に使われたりする事が多かった。大分県に伝わる妖怪・小豆洗いが最も有名だろう。
全国的に伝承が残っており、山梨県では古い橋の下に現れると信じられている。遠野地方では、実際に小豆を洗ったとする川まであるとか。
遠野物語にも小豆の化け物が出現したとの記載がある。物見山の山中で、小豆をまとった未確認生命体が出現し、侍が鉄砲で撃ったものの逃げられたという。
以降、その場所は小豆平と呼ばれるようになり、狩人の間では鉄砲を撃っても当たらないと語られるようになった。
小豆洗いの亜種として、小豆婆という妖怪も伝承が残っている。主に宮城県から関東地方にかけて伝承が残っており、地域によって怪異の内容が異なる。

意外な事に、神の使いであり稲荷神社の象徴である狐は小豆飯と赤飯が好物である。狐に小豆飯という、ことわざまである。
多くの民話でも小豆好きであると伝えられ、寺に小豆を盗みに入った狐が捕まる民話もある。
埼玉県秩父市の三峯(みつね)神社では、お犬様という狼に赤飯を供える神事が執り行われている。
ここでは祠に供えた赤飯が、翌朝何者かに食べられているという。おそらく鳥の仕業だと思われるが、祭られている狼神が食べた可能性も……。

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#region(''アズキの刀''COLOR(white){_})
戦国時代、小豆長光(あずきながみつ)という刀が存在した。袋から零れ落ちた小豆が刀身に当たって真っ二つに割れた事からその名が付いた。
本作のアズキが刀を振るう設定は、ここから来ているかもしれない。ちなみに後世の研究で、刀身に当たっただけでは
小豆は割れないという身も蓋も無い結果が弾き出されている。
刀の試し切りで、死体の頭を縦に斬る事を小豆割りと言われており、これと混同した可能性がある。ちなみに脳や脳髄の事を古語でナズキと言い、
これが訛ってアズキになったと言われている。こわい。
小豆長光は上杉謙信公の手に渡り、川中島の戦い第四戦で使用されたという。謙信公と武田信玄との一騎打ちで振るわれ、
彼の軍配を傷つけた名刀として記録されている。
反論として謙信公の愛刀は「赤小豆粥(あずきがゆ)」と呼ばれており、これと名前が混同されただけで、
小豆長光は全く別の名を冠していたとする意見もある。これもうわかんねぇな。
その後、豊臣秀吉の手に渡ったが、大阪城落城の際に行方不明に。業物だったため徳川方は、提出した者に金300枚を出す条件を提示して捜索したが、
見つからなかった。謙信公亡き後に京へ研ぎに出した後、行方不明になった説もある。
一方、異説として江戸時代まで上杉家に保管されていたとするものがある。しかし明治維新の際に行方不明になってしまった。
アズキの得物である刀は、柄の部分が小豆長光にそっくりである。かの名刀は103cmの刀身だが、アズキの得物の長さは不明である。
小豆長光の名を冠する刀は一振りだけでなく、蜂須賀家が所有していた物も存在する。

アズキの得物は刀ではあるが、キャラクタークエストでは「鉈」と表現されている。実際、先端が丸い形を帯びている。
前述のとおり、丹波地方の小豆は「大納言小豆」と呼ばれている。この地方で採れた小豆は湯がいても腹(種皮)が割れない事から、切腹の習慣が無い官職である大納言の名が付けられた。
腹を切る必要が無いという点を取り入れた結果、完全な刀にしなかったと推測される。

その刀を収める鞘は、必笑だんご剣みたいな変な形をしているが、これは小豆の種が入ったサヤを表している。
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#region(''アズキ、脚気と戦う''COLOR(white){_})
脚気(かっけ)とは、ビタミンB1の欠乏によって引き起こされる欠乏症の一つである。最悪の場合、死に至るというケースもあった。
恐ろしい事に脚気が流行し始めた明治時代初期では原因不明とされ、臣民は成す術なく脚気に殺されていったのである。
脚気の流行は、食生活が麦飯から白米に変わって行った事、欧米化によって小豆を食べなくなっていった事に起因する。
白米は主に将軍家や富裕層が食べたので、高貴な身分の患者が続出した。

脚気の歴史は古く、日本書紀には既にその存在が記載されていた。江戸時代(元禄)にも流行し、主に江戸で罹患者が大量発生した事から「江戸患い」という名前で呼ばれた。
そして1870年。明治3年、欧州からの支配から逃れるために軍国化を突き進んでいた時代にも脚気が猛威を振るった。
毎年6500名以上の死者が発生し、それでいて原因不明とされたため国体そのものを揺るがす大問題に発展した。
この問題には陸軍と海軍の軍医が対応。イギリスやドイツの医学を参考にし、決死の覚悟で解決策を模索した。
様々な仮説が打ち立てられたが、新説を受け入れられない医学会の頑迷さによって被害は拡大。結核と並んで二大国民病と恐れられた。
戦わずして兵士がバタバタと倒れている光景は、新生陸海軍にとって滅亡を彷彿させる緊急事態だった。

海軍の軍医こと高木兼寛はビタミンの欠乏が原因ではないかと勘付く。西洋式の食事を摂る士官には脚気の患者が少なく、
逆に日本式で白米と副食に乏しい食事を摂る水兵に患者が多かった事から、栄養に何か問題があると睨んだのである。
1884年(明治17年)、軍艦筑波を舞台に食生活を西洋式に統一したところ、脚気患者が一人も出なくなった。
これで栄養障害説を確信した高木軍医は、下士官の食事を麦飯に変えて脚気から守った。
一方、陸軍の軍医長こと森鴎外は科学的根拠が無いとして麦飯を否定。海軍の医学はイギリスを、陸軍の医学はドイツを参考にしていたのと、
陸海軍の仲の悪さから認められなかったものと思われる。おかげで対策が見つかったにも関わらず脚気の被害は収まらなかった。
その間に日露戦争が行われ、戦死者は約4万7000人に上った。この中には脚気による死者も相当入っていた。

1908年、脚気の原因究明を目的とした臨時脚気病調査会が創設。国費と一流の研究者を投じ、1924年にビタミン欠乏説が確定。
ようやく脚気の原因を突き止めた事で、1932年にビタミン剤が開発される。こうして死者数は次第に押さえられていった。
しかし依然として脚気は臣民を脅かす病気として認知され続けた。原因は、ビタミン剤が高価なのと
発症後ではビタミンの吸収が難しく、治療が困難だった事が挙げられる。

開国して間もない日本を襲った病魔。国も軍も後手に回る中、一つの光が差し込んだ。それが小豆だった。
ビタミンの存在が確立されていなかった頃から、臣民や医者たちは経験則で小豆を投与していたのである。
脚気が猛威を振るっていた中でも、小豆を食べていた囚人たちは環境面・栄養面ともに劣悪ながら脚気患者は極めて少なかった。
これに着目した大阪陸軍病院長の堀内利国一等軍医正は、実験の末に脚気の発症率を大幅に下げる事に成功。
頑迷な中央部とは対照的に次々と結果を上げて、ついに陸軍もビタミン欠乏説を採った。

小豆の供給が安定し始める1952年頃には脚気はほぼ駆逐された。アズキくん強い。
#endregion

#region(''アズキに関連するキャラクター達''COLOR(white){_})
余談だが、かの有名なアンパンマンの中身はつぶあんだという。作者のやなせたかし氏曰く、非常に栄養価が高い餡子のようだが製法は謎との事。
偶然出来た物らしく、その製法はジャムおじさんですら分からないという。何だこれは。
アンパンマンは餡子がエネルギー源のため、食事の必要も無いとか。
蛇足だが、アンパンマンワールドには「あずきういろう」というキャラがいる。何故、男なんだ。
餡子に使われる小豆は、まめおじさんという豆農家が栽培しているという。

あずきバーで有名な井村屋製菓株式会社は、毎月1日を小豆の日に制定している。
古来から1日と15日には小豆ご飯を食べていた事と、小豆の健康効果を広めたいという考えから制定に至ったとか。
同時に「あずきキングダム」なるキャラクターたちを考案している。コラボ不可避。

アズキと言えば、女性の名前に使われる事が多い。他作品やゲームでも、女性キャラクターの名前として使われている。
シナモロールのキャラクターでも、あずさの読み間違いでもなく、アズキはアズキである。

2009年、兵庫県姫路市に「あずきミュージアム」という博物館がオープンした。アズキをテーマにした世界初の施設である。
マスコットキャラクターは、あずきさんと豆太郎と豆次郎の三姉弟。あずきさんだけ雌個体のようだ。
時間のある方は、足を運んでみてはいかがだろうか。

犬好きの人にとっては聞き覚えがあるであろう豆柴犬。その豆柴犬より更に小さい個体を小豆柴犬(あずきしばけん)と呼ぶ。
豆柴を基に改良・作出された新たな犬種で、世界最小の犬でもある。ベースになった柴犬が天然記念物である事から、
小豆柴も天然記念物扱いとなっている。飼う事は出来るものの、しっかりと育てる必要がある。小豆の名を冠するだけに頭数は少なく、希少価値が高い。したがって100万円以上の値段が付けられている。

#endregion
#region(''アズキといっしょ''COLOR(white){_})
畑で栽培されている印象が強い小豆だが、実は家庭で栽培する事も可能である。園芸店やホームセンター、種苗店で種子を購入できる。市販されている乾燥豆を種に転用するのも可。
夏小豆の場合、北海道では5月中旬頃、九州から本州全域では4月上旬から5月下旬にかけて種を撒く。
本州の秋小豆は6月中旬から7月中旬にかけて撒くのが一般的。ただ品種によって撒く時期が異なるので事前に確認した方が無難。

菜園で栽培する場合は特に土質や場所の指定は無い。ただ粘土質の土や、極端に水はけ並びに日当たりが悪い場所は避ける。
プランターや鉢で栽培する場合は、市販の土や畑の土を使う。植えるときは、よく耕してならした土に60~70cmの間隔を開け、10cm~20cmの溝を掘る。
そこへ肥料をすじ状に撒き、後から撒く種と肥料が接触しないように土を埋め戻す。埋め戻したら、いよいよ種まき。
10cm~20cmの間隔を開けつつ、3~4cmの穴に種を2、3粒入れる。撒き終わった後、10日から2週間の間に発芽する。
鉢の場合は、中心に2、3粒の種を撒く。プランターの場合は3cm~4cmの穴に2、3粒を撒く。
「小豆は友の露を嫌う」ということわざがあるように、小豆は間隔を開けて種を撒いた方が良い。間隔を開けないと、葉や茎だけが生長して
実が全く成らなくなってしまう。間隔には気を付けよう!

日当たりの良い場所で育てると、出芽後1.5ヶ月~2ヶ月程度で黄色い花を咲かせる。アズキくんのカチューシャに付いているあの花である。
花びらが散った後から、サヤが次第に大きくなっていく。開花後、落花や落莢せずに結実するサヤは50%程度と言われている。
開花から30日~40日が経過すると収穫時。なるべく早く収穫しないと腐ってしまうので、さっと回収する。
褐色になったサヤから、小豆の種子が取れる。普通小豆の他に、大納言小豆が成る場合がある。収穫後は選別し、涼しい場所で保管する。


#endregion
#region(''アズキに関することわざ''COLOR(white){_})
・小豆は馬鹿に煮らせろ
アズキくんは馬鹿、という訳ではなく馬鹿や怠け者に煮させろという意味。
実際、小豆を煮るには時間が掛かるため怠け者や馬鹿に適した仕事に思えるが、
実のところ馬鹿になった気分で煮ろ、というのがことわざの本質らしい。

・小豆と女のしょっぱいのには手が付かぬ
計算高く、ケチな女性は人から避けられる。小豆も甘くなければ誰にも食べられない。
どちらも甘くなければ好かれない、という意味。

・狐に小豆飯
狐の好物は小豆飯で、それを目の前に置くとすぐに手を出す事から、油断ならない危険な事を指す。
%%稲荷が入ってないやん!%%

・縁の下の小豆の木
ひょろひょろと伸びて、実が成らない事から出世しない人の事を指す。
世に出ない人を指す場合も。

・小豆は友の露を嫌う
小豆は間隔を開けて種を植えないと、茎や葉っぱだけか生長して実が成らないという先人の経験から生まれたことわざ。育てる時は間隔に気を付けよう!

・小豆の豆腐
小豆からは豆腐が作れない事から、ありえないものの例え。空論を戒める時に使われる。
%%技術の進歩で作れるようになったのは内緒。%%

・小豆飯を炊けば 初午(はつうま)とみる
単純で早合点する事。
京都の伏見稲荷では、神が降りた日に初午祭が行われる。この日には赤飯や小豆飯が供えられる。
赤飯が炊かれているのを見て、何でもかんでも初午祭と考える者を、馬鹿の一つ覚えとして嘲笑する言葉でもある。

#endregion
#region(''各地に伝わるアズキの民話''COLOR(white){_})
全国各地に、小豆を題材にした民話が言い伝えられている。バトル物から恋愛物まで多種多様である。

人を喰う山姥を討伐するため、卯平太(うへいた)という力持ちが山姥を捕らえる。
焦燥した山姥は観音菩薩に化けて急場を凌ごうとするが、卯平太が炊いた小豆飯に惹かれて手を出してしまい、正体を見抜かれる民話が島根県に伝わる。
他にも亀や黒猫に小豆を食べさせると黄金を生むという昔話が日本海側の地方に伝わっている。
ある地方の花咲爺さんの話では、犬に小豆を食べさせて金銀財宝を掘り当てさせたという設定が追加されている。

岩手県にはこんな昔話が伝わる。夜遊びをする夫に苛立った妻は、熱くなった胸の上に小豆が入った鍋を置いた。夫が帰ってくると、いつも小豆が煮上がっている。それも毎晩だ。
不審に思った夫が訳を聞くと、ようやく妻が怒っている事に気が付いた。こうして夫は夜遊びをやめ、夫婦は小豆で仲直りした……というもの。
高知県土佐郡本川村に伝わる神楽の演目では、小豆を見せる事は究極の求愛を意味する。男性が女性に小豆を見せて、結ばれるストーリーがあるんだとか。

これは長崎県対馬豆酘村に伝わる昔話である。
村内に流れる川には、河童の一族が住んでいた。どの河童も大人しく、村民に手出しをしなかった。村で病人が出ると、村民は河童の巣に赤飯を供えた。
河童はこの赤飯を食べて生活していたが、勢力が大きくなりすぎて赤飯では足りなくなる。やがて河童の大将は、村にいたずらを仕掛けるようになった。
怒った村民は反撃し、河童の一族と戦争になる。そんな中、河童の大将が村民に捕らえられる。大将は謝るが、許されず庄屋の柱に縛られる。
食べ物を与えられず、罵られ続ける大将。そんな大将を哀れんだ庄屋の女中ことお千代は、同情から赤飯を炊いて与えた。
久々の食事を与えられた大将は改心すると約束し、お千代に縄を解かせた。
ところが数日後、河童から報復の暴風雨が村を襲った。自責の念に駆られたお千代は身投げし、自殺。
その後、本当に改心したのか河童のいたずらは止まったが、風の日になるとお千代の泣く声が聞こえてくるとか……。妖怪の屑がこの野郎。

静岡県浜松市に、小豆餅(あずきもち)という一風変わった地名が存在する。かつては駅も存在したが、廃駅となってバス停のみが残る。
時は戦国時代。三方ヶ原の戦いで、武田軍に惨敗した徳川家康は敗走。慌てて浜松城へ退却する途上、おばあさんが経営する店で小豆餅を食べて一休みする。
そこへ武田軍の追っ手が攻めてきたとの報告を受け、食い逃げをする。この出来事が地名の由来となっている。
食い逃げされたおばあさんは、逃げる家康を追いかける。そして追いつき、代金を支払わせる事に成功する。その場所は銭取(ぜにとり)と言われる。
しかしこれは後世の創作と言われ、実際は三方ヶ原の戦死者に餅を供える風習が、変に脚色されただけらしい。
ちなみに小豆は家康の好物だった。天下人にまで愛されるとはたまげたなあ。

1570年4月20日、織田信長率いる織田軍は、包囲網の一角・朝倉家を撃滅するため3万の軍勢で京を出立した。
道中、浅井家の領地を通過しなければならなかったが、事前に信長の妹・お市を浅井家に嫁がせる事で同盟関係を結ばせていた。
つまり障害なく朝倉家を攻められた。朝倉の領地である越前に到達すると、破竹の勢いで進撃。素早く筒山城、金ヶ崎城を陥落させ、更に奥地へと侵攻する。
そんな中、浅井家に嫁いだお市から陣中見舞いが届く。それは袋に入った小豆だった。信長は小豆が大好物で、喜んだ。しかし何やら不自然な点が見受けられる。
その袋は前後を縄で縛られていたのだ。小豆一粒でさえ通れないほどに。しばらく考えた信長は、その真意に気づく。
口を縛られ、袋の中に閉じ込められた小豆に逃げ場は無い。浅井家が朝倉側に寝返った事を意味していた。織田軍の背後に浅井軍が現れれば、
正面の朝倉軍と挟み撃ちに遭う。虎口から退却しなければ。信長はただちに武将を集め、撤退命令を下した。
その後、織田軍は金ヶ崎で浅井・朝倉軍の追撃を受け、金ヶ崎の戦いが生起する。織田軍は大敗し、信長は命からがら京まで逃げ切った。
天下の織田軍が大敗するという珍しい展開となったが、この事が信長の怒りに火をつけたとされ、のちに激しい攻撃・残党狩りを加えた。
後世まで伝わる逸話の一つだが、出典となる書物が朝倉家記だけという事もあり、創作とする見方が強い。
古戦場となった金ヶ崎宮(かねがさきぐう)では、この逸話に則って上下を縛った小豆袋お守りを販売している。ご利益は難関突破。

甲斐の虎こと武田信玄公は、陣中食として「ほうとう」を食べていた。豊富な栄養が摂れるよう様々な豆類が添えられ、その中には小豆も含まれた。
信玄公ゆかりの地・山梨県ではレシピを使って再現しており、実際に食すことが出来る。

東京板橋区には小豆沢(あずさわ)という地名がある。由来として様々な説が残っている。
・その昔、その村では飢饉に見舞われた。そこへ小豆の束が沢へ流れ着き、飢えを凌いだ村人たちによって小豆沢と名付けた説。
・平将門が貢物の小豆を船に載せて運搬していたところ、難破。積み荷の小豆が沢に流れ着いた事で付いた説。
・十二天社の祭礼は毎年6月15日で、村民たちは赤飯を通行人に振る舞っていた。食べると妊婦は安産すると言われた事から盛大に行われ、その名が付いた説。

ちなみに小豆の名が付く地名は、谷筋が崩れやすい危険地帯という先人からの注意である。地名には気を付けよう!

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