アズキはマメ科ササゲ属の一年草。
学名:Vigna angularis
原産地:東アジア
俳句では夏の季語。
学名の「Vigna」は「ササゲ属」(17世紀のイタリアの自然科学者に由来)、「angularis」は「角張った」の意味。
本作では「アズキ」という名前で実装されているが、「小豆」の読みは本来は「ショウズ」であり、「アズキ」は大和言葉(和名)であるらしい。
名称の由来については、諸説ある。
・「ア」は「赤」、「ズキ」は「溶ける」の意味。煮崩れやすく短時間で調理できることから。
・「アカツブキ(赤粒木)」からアズキとなった
他多数。
アズキの草丈は30~70cm程度。長い葉柄に小さな葉が3枚付く。5月中頃に種を植え、6月上旬に発芽。兵庫県では7月中頃から種をまく。
7~9月頃に黄色い花が咲いた後、5~10cm程度のサヤができる。
8~11月頃になるとこのサヤが熟し、いわゆるアズキ色の豆が収穫できる。見た目はインゲンマメのサヤにそっくり。
一般的に「アズキ」というとサヤの中にできるこの豆のこと。
寒さと霜に弱いため、気温10度以下の環境だと上手く発芽しない。寒がり屋のようだ。
小豆は、昼間に太陽を浴びて養分を作り出し、夜間にその養分を糖分に変えて蓄積する。気温が高いと、養分を成長のみに使ってしまうため
甘くならない性質がある。昼暖かく、夜涼しい環境だと効率良く成長する事が出来る。
肥料を多く与えすぎると、葉っぱだけが茂って実が成らないため、肥沃な大地で栽培する場合は肥料無しで育てられる。
北海道産の小豆は、渋み成分であるタンニンの含有量が少なく、吸水量も良いため、中国産よりも良質になる。
また、小豆は連作ができない作物で、一つの畑で小豆を栽培すると向こう5~8年は栽培できない。その間に大豆や小麦を栽培するのが一般的。
マメ類の中で最も酸性土に弱いので、栽培には慎重を要する。
大きさが5.5mm以下で4.2mm以上のものが「普通小豆」、5.5mm以上のものが「大納言小豆」と区別される。
原産地は中国北東部で、二千年ほど前に日本へと伝来したと言われている。中国で作られた世界最古の薬学書「神農本草経」によると
小豆の煮汁が解毒剤として用いられたという記述がある。同時に小豆の栽培方法が書かれており、やがて世界に波及。薬効を求めて王族に珍重された。
日本では縄文時代にはすでに栽培されていた。今でも遺跡から炭化した小豆が出土する事があるという。
現在国内で栽培されているアズキは自生種のヤブツルアズキを品種改良したもの。
丹波地方(兵庫県)で栽培される小豆は「大納言小豆」の名称で呼ばれている。
この地方で栽培された小豆は種皮がしっかりしており、水びたしにしても腹が切れない事から、公達が悪事を働いても腹を切らない官職・大納言にあやかって、そう名づけられた。
現地では、縁起の良い豆とされている。多収性を度外視した高級志向のため、収穫量は少なく、年間800トン程度しか出回らない。
6万トン出回る北海道産と比べると、微々たる量しか採れない事が分かる。
大粒で光沢が美しく、風味豊かで、糖分が多い特徴がある。
石川県北部の奥能登地方では、「能登大納言小豆」なる亜種が栽培されており、こちらも高品質な小豆に仕上がっている。
この地では、葉タバコと小豆を交互に栽培する事で連作障害を回避していたが、葉タバコが廃作になったため小豆だけを連作。
結果、生産量が低下傾向にある。
中でも一番希少価値が高いのが「白小豆」と呼ばれる品種である。文字通り白い小豆で、その姿は大豆にしか見えない。
国内で生産されている小豆の99%が赤い物のため、その存在を知らない人も多い。主な産地は北海道、兵庫県、岡山、栃木県。
見た目は白色だが、ちゃんと小豆の味がするという。通常の小豆より食物繊維が多く、ポリフェノールを含有しない事から更に甘い味。
気象条件に左右されやすく生産量が安定しない。故に希少価値が高く、その価格は信じられないほど高騰する。
そしてその白小豆を用いた和菓子は、漏れなく高級品となる。年間で出回る量は僅か100kg。先述の大納言小豆よりも少ない。
栽培が難しく、生産者も軒並み高齢な事から増産は困難な状況にある。
本作のアズキが白いエプロンを羽織っているのは、希少価値の高い白小豆を表しているから……かもしれない。
アズキの開花や別バージョンが出たら、髪の毛が真っ白になる可能性も微粒子レベルで存在している……?
1349年、中国から訪れた林浄因(りんじょういん)という人物が、後村上天皇に餡子入りの饅頭を献上した事が、餡子の伝来と言われている。
しかし当時の餡子は塩味で、とても甘味と呼べるものではなかった。
中国では饅頭の具材は肉と決まっており、餡は肉扱いだったのだ。
なので花騎士4コマ劇場90話のアグロステンマの主張はあながち間違いではないのかもしれない。
伝来からしばらくの間、饅頭は箸でつまんで食べられていた。曹洞宗の開祖・道元禅師が遺した書物「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」によると
箸で食べるやり方が正式だったと記されている。
長らく国内でも餡子は肉扱いであったが、室町時代に外国から砂糖が入ってきた事で一変。国内で砂糖が生産されるようになり、
江戸時代頃から甘く仕上げた餡子が登場するようになった。
ちなみに国内で生産される小豆の約7割が餡子となり、和菓子屋や飲食店で使用される。
餡子には「つぶあん」、「こしあん」、そして「小倉あん」の三種類が存在する。
つぶあんは小豆を潰さずに炊き上げたもの。こしあんは種皮を取り、砂糖で味付けしつつ潰したもの。
そして小倉あんは、こしあんに大納言のような大粒の小豆を混ぜ込んだものである。
小倉あんの「小倉」は、京都府北西部にある小倉山から取られている。小倉唯でも、原爆を落とす候補だった都市の名前でもない。
こしあんの中にある小豆が、小倉山の名物であるモミジを連想させる事から小倉あんと呼ばれるようになったという異説もある。
余談だが、かの有名なアンパンマンの中身は餡子……なのだが、こしあんかつぶあんかは不明である。
作者のやなせたかし氏曰く、非常に栄養価が高い餡子のようだが製法は謎との事。偶然出来た物らしく、その製法は
ジャムおじさんですら分からないという。何だこれは。
70%が北海道(十勝)産で、丹波・備中と共に三大産地として知られる。全国的に栽培されているが、唯一沖縄県のみ気候の問題で例外。
小豆の本格的な栽培が始まったのは1899年頃とされ、今までは個人的に栽培する作物に過ぎなかった。1902年前後には基幹作物の仲間入りを果たし、
北海道への流入者も増えて耕地は拡大していった。
本来、小豆は寒さに弱い品種だが、北海道での栽培を可能とするために品種改良が繰り返され、耐寒性に優れた良質な小豆が出来上がった。
小豆の収穫が終わる10月が過ぎると、帯広に出荷される。そこで豆商人や仲買人が値段交渉をするのである。
生産者と商人の関係は、支那事変勃発まで続いた。
マメ科の中では唯一、国内での自給のみでまかなわれている。年間4~7万トンの小豆が生産されているとか。
中でも十勝産地は非常に広大で、アメリカやフランスの大規模農場で使われる大型農機を投入している。日本で大型農機を使用するのは
十勝農地だけである。すっごい大きい……。
そんなアズキの天敵は、アズキゾウムシと呼ばれる害虫。アズキの中に産卵し、孵化した幼虫が食害を与えてくる。餡子がダメになるよー!
発生率は年に4、5回。つまり季節を問わず襲来するのである。これ対し人類は、害虫に侵入されないよう密閉容器の中に入れて対抗している。
また、戦時中に一人の昆虫学者が、食害に遭わないアズキの開発に腐心した。一度は頓挫したものの、再開。
侵入した害虫を返り討ちにして葬るインゲンマメの遺伝子を組み入れる事で、害虫に負けないアズキが完成。1994年に発表された。
他にもスズメガ及びメイガの幼虫が害虫として立ちはだかる。虫が付きやすいため、対策が必要である。か弱いアズキくん。
アズキ・大豆は米、麦、豆、粟、黍または稗と共に五穀といわれ、日本人の食卓を支えてきた。
薬用に使われるだけあって、牛肉や卵に劣らない豊富な栄養価を含んだ万能食材だった。
お目出たい行事の際の食事に出す赤飯や小正月(1月15日)に食べる小豆粥に使われる他、
餡子としてお萩や牡丹餅、最中、饅頭、どら焼き、アンパン、ぜんざい、
煮てから寒天を加えて羊羹、煮た小豆汁にお餅などを入れて汁粉などに使われたりと和食・和菓子に欠かせない食材である。
地域によっては醤油や味噌の原料として使われることもあるのだとか。
山形県の小国町では葬式の際に赤飯を炊く風習があり、普段は忌み嫌われるという珍しい地域性がある。
同じく山形県庄内地方では赤飯の小豆が胴割れすると割腹を彷彿させるとし、ササゲを代用品に充てた。
東北地方では方言で、黒ササゲの事を「てんこ小豆」と呼ぶ。てんこあいしてる。
余談だが、お汁粉の起源は江戸時代に誕生した「すすり団子」という料理。塩味で味付けし、甘味ではなく酒の肴として飲まれた。
明治から大正にかけての時代は甘い物が少なく、時代に合わせた結果、お汁粉が誕生した。甘味が少ない中でのお汁粉は、
人々を魅了するには十分の美味しさだった。
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| | 戦争とアズキ_
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古来より、日本人の食生活に寄り添ってきた小豆。それは戦時中も変わらなかった。
第一次世界大戦では、欧州の産地(ルーマニアやハンガリー)が戦場になってしまい慢性的な小豆不足を招いた。
ちょうどその時、北海道の小豆が豊作になった。これに目を付けた小樽の商人たちは
ヨーロッパの同盟国へ向けて北海道産の小豆を大量に輸出。儲け話だからと、権力のある政治家に賄賂まで渡して輸出を強行した。
黄金そのものである小豆を少しでも多く手に入れようと、商人や商社同士の醜い抗争にまで発展してしまった。
輸出された小豆の中には、砂糖をまぶして餡子にしたものもあった。ところが、欧米人の口に小豆は合わなかった。渋くて苦いという印象だけが残ったとか。
しかし戦争特需により、十勝の小豆生産者は大儲けに成功。借金を返し、故郷に錦を飾った農家さえいた。
小樽には20件以上の工場が立ち並び、雇われた女工は一時期約6000名に上ったとされる。
北海道初の衆議員こと高橋直治は、第一次世界大戦で小豆の特需が来る事を先読みし、国内の小豆を買い占める。やがて戦火が激しくなると、
倉庫に備蓄した13万俵を一気に売却。1俵17円の高値を付け、ロンドン市場を揺るがした。彼の名は世界的に轟き、「小豆将軍」の異名が付いた。
この様子は「豆成金」と呼ばれ、好景気は1915年から1935年まで続いた。
とはいえ全員が成功した訳ではなく、一夜で資産を傾ける者がいた一方、千金を得る者など千差万別であった。
この頃からアズキくんは大人気で、臣民の運命を握る鍵だったのである。
しかし、小豆特需は長く続かなかった。昭和初期に入ると、船舶の大型化によって海運が発達。拠点だった小樽港も
大規模な改装工事を受けざるを得なくなり、工場は不活発化。数多く居た女工も次々に辞めていき、衰退の一途を辿る。
小樽の繁栄は、現地の住民にさえ忘れられるほどの過去の話になってしまった。
そして特需の終焉は、後の大東亜戦争に暗い影を落とす事になる。
本作のアズキが着ている大正時代を彷彿させる和服はその時代を参考にした可能性がある。
戦前から小豆は大豆に次いで栽培面積が広く、伝統ある食材として生活必需品であった。
また、お汁粉は軍民ともに大人気で、特に子供からの人気が強かった。
帝國海軍の顔とも言うべき航空母艦赤城では、乾パンの小倉煮なるスイーツが考案され、
1935年の料理コンテストに出品されている。ふやかした乾パンに砂糖と小豆を混ぜた料理だとか。
海軍の艦艇に積載される補給物資には小豆も含まれており、厳しい戦闘や航海、訓練の慰めとなった。
世界恐慌により絶望的な不景気が始まると雇用対策として、満州国への開拓団が編成された。日本本土から500万人規模の移民が行われ、
満州は穀倉地帯となった。かの地は大変肥沃で、小豆を植えると驚くほど沢山取れたという。
満州で収穫された小豆は内地へと輸送され、厳しい食糧事情を支える柱となった。
帝國海軍では、入港した際にぜんざい(通称入港ぜんざい)が振る舞われた。貴重な砂糖と小豆を使った
ぜんざいは乗組員の心と舌を癒した。このぜんざいには、無事に帰って来られた事を祝う意味合いも含まれている。
佐世保近郊の店では、戦艦武蔵の入港ぜんざいというレトルト商品が販売されている。
臣民や軍人からもアズキは愛されていたのだ。
1937年6月に支那事変が勃発すると、いよいよ国内も戦争色に染まり始めた。同年9月10日、「雑穀類配給統制規制」が公布。
小豆を含む豆類が制限される、最初の規制が始まった。翌1938年4月からは国家総動員法が発令された。
それに伴って、毎月1日の朝は小豆ご飯を食べるようになったという。
戦争が泥沼化する1940年11月14日、政府は食糧を確保すべく二度目の雑穀配給統制規則を公布。更なる制限が課せられ、
自由に売買する事が出来なくなってしまった。
1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。敵味方を逆にして、日本は世界大戦に参戦する。
1942年2月15日に英シンガポール要塞が陥落すると、三日後に日比谷公園で大東亜戦争戦捷第1次祝賀国民大会が
開催され、小豆を始めとする貴重品が振る舞われたという。開戦劈頭は優勢だった事もあり、
制限はされつつも小豆を入手する事が出来た(1941年10月4日から小豆の配給統制が始まっていたとする説がある)。
しかし戦況が悪化するにつれ、物資が欠乏。枢軸国が不利になり始める1943年からは
配給制となり、砂糖ともども入手が困難になってしまった。
当時、日本の統治領だった台湾には捨てるほど砂糖があった(内地へ輸送できるとは言ってない)が、小豆は品薄だった。
元々小豆は不急の作物として生産が後回しにされており、それが戦中の欠乏を後押ししてしまった。
小豆がまともに入手できなくなった事すらあったという。このため代用品にと、ササゲが用いられた事があった。
第一次世界大戦の頃とは違い、小豆の輸出は全く行われなかった。対米英で総力戦だった事と、同盟国である独伊へのルートが
全て連合軍によって閉ざされていたからである。遣独潜水艦作戦?しらなーい(へったくそな海上護衛)
そもそも、主な産地であるハンガリーやルーマニアが枢軸国側(味方)だったりする。
また1943年から菓子製造に企業整備令が発布され、モナカといった菓子が国内から姿を消す。アズキの実家こわれる。
息子や父等が召集令状により徴兵された時、出兵を祝ってお赤飯が振る舞われた。
北海道土地改良5ヶ年計画により食糧の増産が試みられたが、その波は十勝まで届かず、小豆の増産は叶わなかった。
一方、満州国は生産地だけあって小豆には困らなかった。本土よりも豊かな暮らしが出来たとも言われる。
内地の母親たちは死に物狂いで小豆をかき集め、お手玉にして疎開先へと送った。
お手玉の中身が小豆に変わったのは、1944年に入ってからだと言われている。
送られたお手玉は子供の遊び道具となったのち、中身を取り出して食べられた。
しかしこれは非常食代わりだったという。疎開先でもひもじい思いをしていた児童は
すぐに食べてしまう事が多かった。全員が全員小豆を入れてもらえる訳ではなく、小石で代用された学童もいた。
満州国から送られてくる雑穀の中に小豆があり、僅かながら供給はされていた。
帝國海軍も日本海側のシーレーンを防衛すべく6000個もの機雷を敷設し、補給路の維持に腐心した。
だがそれも、1945年4月から行われた米軍の飢餓作戦により補給路が切断。
いよいよ小豆は幻の存在となってしまう。東京大空襲で備蓄も焼けてしまい、入手は困難を極めた。
6月28日、帝國陸海軍は日号作戦を発動。朝鮮の港から小豆といった雑穀(戦略物資と呼称)を強引に輸送する賭けに出た。
船舶の絶対数不足、陸揚げ能力の不足、加えて米軍の妨害もあったが95万トン以上の物資を輸送する事に成功。
一方、7月14日から3日間、北海道も攻撃を受けた。小豆の産地だった小樽も攻撃対象になり、空襲から銃撃、艦砲射撃まで手酷くやられた。
停泊中の海防艦や漁船が犠牲となり、市街地や港湾に被害が出た。迎撃機や対空砲による反撃で何機かは撃墜したものの、軍民合わせて37名が死亡。
同じく小豆の産地である十勝も米艦載機の襲撃を受ける。2日間に渡って銃撃を受け、臣民60名が死亡。
特に本別町への空襲が激しく、50分もの間、激しく銃撃されたという。全焼した家屋は279戸、けが人は14名、罹災者は1915名に上った。
ちなみに本別への激しい攻撃は、帯広への攻撃と間違った事による。臣民への銃撃はNGで……。
その後も朝鮮からの輸送作戦は続いたが、日本海は米軍によって機雷封鎖され、8月9日のソ連参戦に伴って輸送作戦は頓挫。間もなく終戦を迎えた。
特攻隊への入隊や出撃前には、赤飯が振る舞われた。保存食にも赤飯が用いられており、現存しているものもある。
ちなみにその保存食は小豆島(しょうどしま)から発見されている。小豆……。
終戦の日である1945年8月15日まで赤飯が提供されていたという。
1945年8月9日、地平線まで埋め尽くすソ連軍が満州国に侵攻。現地には155万人の開拓移民が取り残されていたが、
民を守るはずの関東軍は南方戦線へ戦力を抽出されまくっており、既に形骸化していた。
それでも関東軍第124師団は小豆山(ソ連軍の砲撃で真っ赤に燃え上がった事から現地の人は火焼山と呼ぶ)に戦闘指揮所を置き、
十倍以上の敵を相手に勇戦。15cmカノン砲一門による砲撃でソ連軍の戦車を数十輌大破炎上せしめる。
壊滅寸前まで追いやられるも、玉音放送が流れる時まで防衛ラインを死守する活躍を見せ、20万人の移民を守りきった。
しかし、さしものアズキも連合軍を餡子みたく練り上げる事は出来なかったようだ。
終戦後、闇市では残飯シチューなる食べ物が流行った。総力戦に敗れた日本は荒廃し、食料が少なかった。
進駐軍の残飯に、かろうじて残っていた小豆やらマッシュルームやらモロコシやらを入れて煮込んだ代物である。
「美味しい」という感想から「食べられた物じゃない」という感想まで千差万別だったが、これを食べて人々は命を繋いだ。
昭和20年の日本は3000万石の生産高しかなく、7000万人の臣民を養うにはとても足りない状況だった。
そこで政府はGHQの力を借り、米や豆類の供出・流出を厳しく統制。一時は食糧メーデーという暴動まで発生した。
アズキくんのレア度は金どころか虹レベルだった!
北海道から船路で引き揚げてきた者が小豆を大量に持って帰ってきてくれたが、それでも数は全然足りなかった。
小豆が容易に手に入らなくなったため、甘納豆を使った赤飯の代用品が編み出され、ラジオで広く宣伝された。
小豆の生育は気象条件に左右され、年々生産量が乱高下する事から投資の対象となった。
凶作時には凌雲の如く価格が暴騰し、赤いダイヤと呼ばれた事も。
アズキが宝石を好むのはこれが理由なのかもしれない。
ハイリスクハイリターンな事から、生糸と並んで「素人は手を出すな」と言われていた。アズキはお高い女だった・・・?
供給が安定し、配給制が打ち切られたのは1951年の事だった。自由に売買が出来るようになり、1952年10月には大阪と東京で
雑穀商品取引所が開所。赤いダイヤの異名を持つ小豆は、先物取引の対象にもなった。
ところが1953年及び翌1954年、北海道で小豆が大凶作に見舞われる。外貨不足で輸入も出来ず、価格が高騰した。
60kg1万590円の高値を付けた時もあったという。1955年、平均をやや上回る収穫量が得られたため次第に値段は下がっていった。
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アズキは神話にも度々登場する。奈良時代初期の書物『古事記』に初めてアズキの名が記載された。
『古事記』には穀物・食物・蚕の女神である大気都比売神(おほげつひめ)が殺された際、その鼻から小豆が生じたとされる。
『日本書紀』でも同様に食物の神である保食神(うけもち)が殺された際、保食神の亡骸の陰部から麦・大豆・小豆が生まれたとされる。
また、赤色は五行において邪気を祓う「火」、または太陽や血など「生命」を象徴する色であることから、赤く熟したアズキには魔除けの力があると信じられてきた。
祝事や季節の変わり目、生活の節目に厄除けとしてアズキを食べるのもこのため。
密教の秘法、護摩供では本尊不動明王を初めとする諸仏に五穀を供える作法があり、ここでも小豆が使われている。
不動明王の口を模した護摩壇の釜の中に、供物を投じて修法するのである。
地鎮式の際、土地の神様へのお供え物として五穀を穴の中に埋めるという作法があり、土着の宗教に深く結びついている事が窺える。
浄土真宗の開祖こと親鸞聖人も小豆を愛したとされ、東本願寺では春の法要の際に、「あずきフェスタ」と称した催しが開催される。
他にも報恩講では、小豆粥や小豆ごはんを振る舞うのが通例としている。
西暦809年、唐から帰国した真言宗の開祖・空海は、密教の秘法とともに小豆の種を持ち帰ってきた。
これを山城国の小倉山近辺に植えて栽培。後年、和三郎という菓子職人が砂糖を混ぜ、御所に献上した事が小倉あんの発祥と言われている。
品種改良や産地が移動した事で小倉大納言小豆は数を減らしたが、江戸時代に入ると再び栽培されるようになったという。
国内のアズキは75%が餡用であるが、漢方としても多く使われる。栄養分が豊富で、その八面六臂っぷりは差し詰め天然の薬である。
先ず小豆には、鉄分やビタミンB1やB2、カリウム、カルシウム、美白や血行促進に効果があるとされるポリフェノール、外皮には肥満防止効果を持つサポニンを多く含む。
ビタミンB1はアルコール分解の作用があり、小豆の汁は二日酔いに効くとされる。同時に疲労回復の効果もある。
カリウムとサポニンには生活習慣病と便秘の予防に効果があり、高血圧や中性脂肪の低下にも役立つ。
もたらされる利尿効果は、むくみ対策に効果的である。
豆を煎じたものを「赤小豆(しゃくしょうず)」といい、解毒、排膿、利尿に効く生薬としても使われる。
江戸時代では、原因不明の病とされた脚気の治療薬として医師が小豆を処方していた。
小豆にはチアミンが含まれており、脚気(かっけ)に効果的だった。小豆を国民食にした事で、戦後以降は脚気がぱったりと無くなっている。
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| | アズキの刀_
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戦国時代、小豆長光(あずきながみつ)という刀が存在した。袋から零れ落ちた小豆が刀身に当たって真っ二つに割れた事からその名が付いた。
本作のアズキが刀を振るう設定は、ここから来ているかもしれない。ちなみに後世の研究で、刀身に当たっただけでは
小豆は割れないという身も蓋も無い結果が弾き出されている。
刀の試し切りで、死体の頭を縦に斬る事を小豆割りと言われており、これと混同した可能性がある。ちなみに脳や脳髄の事を古語でナズキと言い、
これが訛ってアズキになったと言われている。こわい。
小豆長光は上杉謙信公の手に渡り、川中島の戦い第四戦で使用されたという。謙信公と武田信玄との一騎打ちで振るわれ、
彼の軍配を傷つけた名刀として記録されている。
反論として謙信公の愛刀は「赤小豆粥(あずきがゆ)」と呼ばれており、これと名前が混同されただけで、
小豆長光は全く別の名を冠していたとする意見もある。これもうわかんねぇな。
その後、豊臣秀吉の手に渡ったが、大阪城落城の際に行方不明に。業物だったため徳川方は、提出した者に金300枚を出す条件を提示して捜索したが、
見つからなかった。
一方、異説として江戸時代まで上杉家に保管されていたとするものがある。しかし明治維新の際に行方不明になってしまった。
アズキの得物である刀は、柄の部分が小豆長光にそっくりである。かの名刀は103cmの刀身だが、アズキの得物の長さは不明である。
小豆長光の名を冠する刀は一振りだけでなく、蜂須賀家が所有していた物も存在する。
アズキの得物は刀ではあるが、キャラクタークエストでは「鉈」と表現されている。実際、先端が丸い形を帯びている。
前述のとおり、丹波地方の小豆は「大納言小豆」と呼ばれている。この地方で採れた小豆は湯がいても腹(種皮)が割れない事から、切腹の習慣が無い官職である大納言の名が付けられた。
腹を切る必要が無いという点を取り入れた結果、完全な刀にしなかったと推測される。
その刀を収める鞘は、必笑だんご剣みたいな変な形をしているが、これは小豆の種が入ったサヤを表している。
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あずきバーで有名な井村屋製菓株式会社は、毎月1日を小豆の日に制定している。
古来から1日と15日には小豆ご飯を食べていた事と、小豆の健康効果を広めたいという考えから制定に至ったとか。
また、日本各地で「小豆洗い」という妖怪が確認されている。洗う音は聞こえるものの、姿は見えないらしい。
音に誘われると、川に落とされてしまうという。
2009年、兵庫県姫路市に「あずきミュージアム」という博物館がオープンした。アズキをテーマにした世界初の施設である。
時間のある方は、足を運んでみてはいかがだろうか。
最近、小豆を使ったカイロという運用法が編み出された。耐熱性のある布に小豆を入れ、電子レンジで1分ほど温めると即席のカイロになる。
時間にして数十分間持つ。繰り返し使えるので、素寒貧の人も安心である。寒い日はアズキに温めてもらおう。
吸熱作用のある小豆は、なんと枕の中身にも使用される。他の雑穀と比べて、小豆には二倍の吸熱性があり、これが夏場で役立つのである。
いつ頃からかは不明だが、枕の中に小豆を入れる人が続出。睡眠を妨げない最高級素材の小豆は、主に武士から好まれた。
電子レンジで温めれば、湯たんぽにもなる有能っぷり。
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