どうして母の日にカーネーションなの?
「母の日」という記念日の原型は、実は17世紀のイギリスに既に存在していました。
その当時は「Mother's Sunday」あるいは単に「Mother's Day」と呼ばれ、キリスト教に関連する習慣で
母親の元を離れて丁稚奉公に出された子供達が、年に一度だけ、ちょうどイースターの40日前の日曜日に
教会で母親に再開することが許された日でした。
その後、19世紀のアメリカで、ある女性社会活動家がこの名前を取り入れてある運動を始めることになります。
その女性社会活動家とは、「リパブリック讃歌」の作詞で知られる、ジュリア・ウォード・ハウ女史です。
ちなみに、リパブリック讃歌は日本ではとある大手カメラ系量販店のテーマソングに替え歌で使われているので
メロディーだけは知っているという人も多いのではないでしょうか。(『まぁるい緑の山手線~』というアレです)
ハウ女史は奴隷廃止運動家として、南北戦争の間も様々な活動を行っていました。前述のリパブリック讃歌もその一つで
奴隷解放を訴えていた北軍に協力して、北軍の行軍曲として作詞したものです。
そして戦争終結後の1870年、ハウ女史は「母の日宣言」を発表して、子供を戦争に奪い取られ残された母親の立場から
子どもや夫を戦地に送り出すのを拒否しよう、と平和と非武装を強く訴えたのです。
その後もマザーズ・デイを平和の日として公式に認知させるべく働きかけていたのですが、生前にそれが叶うことはありませんでした。
一方、同時期にウェストバージニアで活動していた、こちらも女性社会活動家のアン・ジャービス氏は
ハウ女史の平和運動に影響を受け、「Mother's Day Work Club」というボランティア団体を立ち上げて、敵味方問わず
負傷兵を救助するための、戦場での衛生改善活動を展開していました。
そして戦後も「Mother's Friendship Day」といった、南部と北部のわだかまりを解いて平和を取り戻すための活動を続けたのでした。
アン・ジャービス氏は1905年に亡くなりますが、彼女を深く敬愛していた娘のアンナ・ジャービス氏は、自分の母親の活動を振り返りつつ
たとえ亡くなっても母親を敬う気持ちだけは世に残しておきたいと考え、母への敬意を表す国民的な記念日を設けるべきだという構想に至ります。
そしてその第一歩として、まず地元の教会に願い出て「母の日」の式典を実現させるよう訴えかけたのでした。
彼女の願いは実り、1908年5月10日、ついにウェストヴァージニア州のグラフトンにあるアンドリュー・メソジスト教会で
最初の公式な「母の日」のセレモニーが行われたのです。
ここで列席者には、アンナ氏の母親が生前に好きだった白いカーネーションの花が配られ、それが今日の「母の日にカーネーションを贈る」
という習慣につながっていったのです。
その後、アンナ氏の活動は徐々に賛同者が増え、ついには1915年に当時のウィルソン大統領が国の公式な記念日として
5月の第2日曜日を母の日として制定したのは前述の通りですが、更にその後も「母の日」の運動が広がりを見せて
やがてはカーネーションが高値で取引されたり、「母の日カード」が売りだされたりなどと商業的に便乗する人々が増えたことに
アンナ氏は非常に憤慨していたそうです。
当初の理念を実現させるために、商業的に過ぎる活動の差し止め裁判を起こすなどして歯止めをかけようともしていたようですが、
結局は商業化への大きな流れは止められず、ビジネス上の一大イベントとして定着してしまったのは、見ての通りです。
ちなみに、カーネーションの花言葉は色によって微妙に変わってきます。
赤のカーネーションは「母の愛」「信じる愛」「熱烈な愛」、
ピンクのカーネーションは「感謝の気持ち」「上品な気質」、
紫のカーネーションは「誇り高い愛」「気品あふれる愛」、
青のカーネーションは「永遠の幸福」といったものです。
ただし、気をつけたいのは白と黄色。
白のカーネーションは「純粋な愛」「私の愛は生きています」という意味で、
前述のアンナ・ジャービス氏が追悼セレモニーで贈ったことからも分かるように、どちらかと言うと「故人に贈る花(の色)」です。
そして黄色のカーネーションは「軽蔑」「嫉妬」「失望」といったもの。
知らずにプレゼントして、却って失礼なことになってしまった、なんてことにならないよう、皆さまもお気をつけください。
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